1 溝口『さん』

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1 溝口『さん』

【第一章 森良幸平 20歳】 (約一ヶ月前)  昔はもっと友達が少なくて、小学校の頃に幸平と遊んでくれたのは近くに住んでいた陽太くらいだった。  二十歳ともなると、子供の頃よりは親しい友人もいる。  大学では高校から友達だった谷田と、バイト仲間でもある時川とよく話す。だから最低二人はいる。  ……長年続く片想いの相手ではあるけれど、まだ陽太を友達と数えていいならば三人だ。  つまり友達が、いないわけじゃない。 「幸平は友達がいないだろ」  だが谷田は容赦なく言い放った。  幸平は箸を持ったまま固まり、パチパチっと瞬きする。 「え……俺、友達いない?」  思わず呟くと、谷田は焦燥を表情に滲ませ、言い訳のように「いないっていうか、少ないっていうか。変な話だよな。幸平はすげぇいい奴なのに」と付け足してくる。 「地味だけどいいやつなのに。変だよほんと。世界が間違ってるんだな。少ないって何だよ。何言ってんだ」  自分で提起した問題に自分で文句を入れ始めている。幸平が落ち込んだと思ったのか、自分の茶髪を指で弄って、「この世界はおかしいな」と言った。  実際、友達が少ないのは事実だ。だから幸平は気にしていない。  今の谷田の方がよっぽど幸平の友達事情を気にしている。 「えっと、何つうか、友達少ない幸平の家から俺ら以外の誰かが出てくるなんて変だと思ったって、それを言いたかったわけ」 「谷田くん、それは失礼じゃないか?」  朗らかに言ったのは時川だ。同じ経済学部の二年で、昼食をよく共にしている。温和な性格の彼はいつも爽やかに笑っており、今だって「ほら、幸平くんも微妙な顔してる」と綺麗に微笑んだ。 「幸平怒ったか?」 「怒ってないよ」  本心だ。でも。 「谷田に何を心配されてるのかよく分からない」 「いや。だって、さ」  そうして今日も時川と学食に来ていた。時川の眼鏡がラーメンの煙で曇るのを眺めていると、いつの間にか隣に彼がいる。 「あれってさ……お、俺の見間違いじゃなかったらなんだけど」  途中からいきなり相席し出した谷田には、どうやら言いたいことがあるらしい。  幸平の隣で谷田は一度口を噤む。喉の動きで唾を飲み込んだのが分かった。  覚悟が決まったのか、本題を突きつけてきた。 「溝口……陽太さんだよな」  谷田は緊張した面持ちでその名を告げた。まるで名前を言ってはいけないあの人みたいな強張りが声に宿っている。  何と返したらいいのか。幸平は黙り込む。  いつも思う。咄嗟のことに自分は、まるで対処できない。  幸平の部屋から陽太が出てきた瞬間を谷田に見られているなんて想像していなかった。でもそれが起こる可能性はゼロでない。  町にゾンビが蔓延る様子や隕石が降ってくる妄想はよくしていたのに、どうして谷田に自分と陽太が共にいる瞬間を見られる想像ができなかったのだろう。  誤魔化しようがなかった。なぜなら何を誤魔化せばいいのか分からない。  幼馴染という事実を? それとは別の関係があることを?  予告のない事態に対応するのが苦手な幸平はすっかり閉口する。 「――そうですよ」  代わりに答えたのは、またしても唐突にやってきた人物だった。  彼は、谷田とは反対側の隣の席に腰を下ろし、ほんのりと笑みを唇に乗せて幸平を眺めてくる。  いきなり登場するので驚いて見ていると、谷田が言った。 「ムロくん、また来たのかよ。チッ。いつもキラキラした顔してんな……同級生に友達いねぇの?」  後輩の室井は「いますよ。幸平先輩と違って」とにこやかに返した。谷田がすかさず「おい! 言われてっぞ幸平!」と自分を棚に上げる。  室井は経済学部の後輩でもあり、中高時代の後輩でもある。彼はいつまで経っても幸平の後輩だ。  室井が大学に入る半年前までは、それほど交流があったわけではない。しかし今ではこうして絡んでくる機会も増えている。  変な話だ。どちらかと言うと、室井は、幸平ではなく陽太の方を『陽太さん』と呼んで親しんでいた。  彼は陽太に関して詳しい。  だからなのか、薄ら危惧した通り彼は言い放った。 「だって幸平先輩、陽太さんと付き合ってますもんね」  「はっ!?」谷田が目を見開く。  「意外だな」時川はさらりとした茶髪を揺らして顎を引いた。 「そりゃ家にも行きますよ。やることやってんだから」  これ以上黙っていたらダメだ。まだまだ口を開いて何か言おうとする室井を遮り、 「こ、恋人ではないよ」  と告げる。  数秒の沈黙が流れた。自分でもわかっていた。  あ、言葉を間違えた、と。 「……なんか」  谷田はもともといかつい顔を更に厳しく引き締めて呟く。 「まるで恋人ではないけど、そういう関係はあるみたいな言い方だよな」 「へー、意外でした。幸平先輩って、陽太さんのこと好きなのかと思ったから」  またしても反応に遅れる。その隙に室井はさらりと「陽太さんのこと好きですよね?」と言った。  その言葉に谷田は硬直し、この席順に時川は「どうしてみんなそっちに座るんだ?」と意見する。  室井は笑っているけれど、鋭い眼差しで、幸平をじっと見つめた。 「……あーあ、幸平先輩」  室井は唇の端を上げて、いっときも視線を外さずに言った。 「ちょろいですね。すぐ動揺しちゃうんだ」 「……ちょ、おいおい幸平。お前誤魔化しが下手すぎる」  今更ではあるが「付き合ってるとかじゃない」と幸平は呟く。谷田は頷いて、 「わかったから。でもさ、お前、反応が明らかだって。溝口さんのこと好きなのか?」  陽太のことはこの場にいる全員が知っている。それも別々の立場から。  谷田は彼と高校の同級生だった。時川にとってはバイト先で何度か見かけたことのある『美の圧が強い人』。  室井は、陽太のグループに属していて、彼と仲の良い後輩だった。 「恋人じゃないなんて意外でした。そういう関係なのに」  ……どうして知っているんだろう。  脳裏を過ぎるのは、高校時代に見た二人の光景だ。  室井が親しげに陽太へと語りかけ、陽太も何か返している。その二人の様子を見て女子たちが遠巻きに騒いでいた。  残影を心に封じ込める。幸平は口を開いた。 「……それ、陽太くんから聞いた?」  谷田は目を見開いて、「陽太くん!?」と驚愕した。  室井は幸平の質問には返さず、谷田へと、 「陽太さんと幸平先輩って幼馴染なんですよ」 「そうなのか!?」  谷田は信じられないとばかりに眉を歪ませる。幸平もまた、内心で驚いた。  幼馴染……。  それは陽太が室井に教えたのだろうか。  谷田は衝撃を受けた表情のまま、呆然と幸平へ語りかけた。 「だって高校ん時、お前ら、一個も喋ってねぇじゃん」  瞳には懐疑的な色も宿っている。 「だってあの、溝口陽太……」  そこまで言って、谷田は言い直した。 「……溝口さん、と幼馴染?」  と。  谷田だけではない。  陽太を『溝口さん』と呼ぶ同級生は大勢いた。  むしろそれが大半だった。陽太に親しい一部の生徒たちだけが、フラットに彼の名を呼ぶことを許されている。  先輩たちだってそうだ。年上の権利を振り翳して陽太に気軽に接する人などいなかった。  陽太が過度に恐れられていたのは異質だったからだと思う。高校は進学校で、校則のない私服校だった。  勉強ばかりしていた幸平があの学校へ進学したのは進学校だったから。陽太の理由はきっと、校則のない私服校だったからだ。  そうすれば、肩や腕に彫られたタトゥーを隠しやすい。耳の上の方や妙なところにピアスが空いていたって咎められない。  明らかに異質だった。  高校には陽太のような生徒は他にいない。たとえタトゥーが見えなくたって、陽太の放つ雰囲気は尋常でなく、高校時代の谷田も『溝口さんとすれ違ったんだけど、まじでちびるかと思った。威圧が強すぎる』と語るほどだった。  谷田こそが言ったのだ。『イケメンヤンキー、とかのレベルじゃない。極道役やってる美形俳優?』と。  確かに陽太は子供の頃から綺麗な少年だった。成長するに連れて、背が高くなり、百八十センチを越せばスタイルも際立つ。  俳優と言われても頷けるくらいの美貌をもっている。癖毛がちの黒髪が白い肌によく映えて、通り過ぎる人すら振り返った。  でも、陽太が恐れられるのは見た目のせいだけでない。  一年の頃彼は、暴行事件を犯しかけた、らしい。  幸平は内情をよく知らないが、陽太が同じクラスの男子を失禁させたのだ。  実際には暴力なんて振るっていない。けれど陽太はクラスメイトの発言に激怒し、その怒りに触れた男子生徒がその場に座り込み、あまりの恐怖で失禁したのだと。  あの場に居合わせた数人の生徒の伝聞は校内中に広まった。  そうして陽太への畏怖に拍車がかかる。 「溝口さんと幼馴染って、どうして教えてくれなかったんだよ」  谷田は言った。しかしその声には恐怖と驚きだけでない感情が孕んでいた。  ……そう。  陽太は、恐れられているだけでなかった。  溝口陽太は、皆から好かれていた。谷田が今見せたように、憧れみたいなものを抱かれていたのだ。  陽太が激怒したのは一度きりで、普段の彼はいつもにこやかだった。口数は少ないが優しくて、どんな生徒にも親切に接する。  特に男子生徒から憧憬を集めていた。それは彼に群がる女子生徒の存在が影響している。  陽太には恋人ではないが関係のある女子が何人もいた。実際、陽太の周りにはいつも綺麗な女の人たちがいて、人気な女子の先輩にも好かれていた。  陽太とは全く関わりのない一般生徒たちからは、彼の領域は『大奥』と呼ばれていたほどだ。 「高校ではそんなに接点なかったから」  幸平は記憶に蘇った光景を打ち消して、単調に答えた。 「幼馴染って言っても、中学からは話してなかったし」 「やっぱ二人でいたことないよな? だって、違いすぎるだろ。幸平と溝口さんが幼馴染って……想像つかねえ」 「俺だってそう思う」  今となっては。 「どっちかっつうと、ムロくんと溝口さんの方が一緒にいたイメージなんだけど」  谷田は幸平越しに室井へ目を向ける。  室井はにっこりと答えた。 「そうですか? 僕は二人が話してるの見たことありますよ」 「え?」
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