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49 戻ってきた
室井は一度目を伏せる。長いまつ毛が、頬に影を落とした。
「幸平先輩だって、この間まで谷田さん達に自分のこと話さなかったじゃないですか。俺だって……六年間、誰にも打ち明けたことなんてなかった」
やがて顔を上げ、くっきりとした目を谷田へ向ける。
「話すつもりもなかった。本当だったら、とっくに終わった恋だった。それでも俺がずっと幸平先輩を好きだったのは、二人を見ていたからです」
陽太は瞬きも忘れ、息を呑んだ。
室井は声を僅かに荒げる。
「近くに、男同士なのに、恋なんかしてる奴らがいたから俺も同じように恋してただけです。近くにいたから俺は勝手に励まされてた。こんな、男女の歌ばっかの世界で……ホモだってネタにされる世の中で。恋人ができたことを親に恥ずかしいか恥ずかしくないかで言うのを迷って、その辺にいるガキを見ていつか自分たちも子供を持てるって思ってる人たちが、陽太さんに素直になれよって言うんですか」
室井は谷田を睨みつけている。
「谷田さん、俺はアンタみたいな奴が」と言った。
しかしそれから、不意に和らげて、
「……羨ましい」
放心したかのような吐息をついた。
少しの沈黙。室井は、力なく言う。
「俺だって矛盾ばっかです。陽太さんたちにくっついて欲しいのに、くっついて欲しくなって、進まない二人に苛立ったけど、陽太さんが踏み出せないのも分かる」
「……確かに谷田くんは自分が納得いかないから溝口さんに押し付けてる節はあるな」
俯きがちになった室井が、時川に目を向けた。
三列シートの二列目に座った時川は、隣の谷田へ笑いかけた。
「谷田くん、正論を言うのは気持ちがいいだろ?」
「……溝口さん」
「ごめん」谷田は、叱られた犬みたいな顔をして陽太へと言った。根が純粋なのだろう。谷田はすっかりシュンと気弱な表情をしていた。
正直、どう返せばいいか分からない。複雑な感情が入り乱れているからだ。
すると陽太に話す間を与えず、時川が「でもさ」と切り出した。
「谷田くんの気持ちが私には分かるよ。どうしても私らは幸平くんの友達だからな」
薄い笑みを浮かべている。横目で隣の友人を眺めてから、瞬きをして、陽太へ視線を移す。
「私としては、溝口さんはもう少しいい加減になってもいいんじゃないかと思う」
「……いい加減?」
鸚鵡返しで呟くと、彼は微かに頷く。
「たとえば、今のではないけど谷田くんは度々失言するんだ。しかしこれが案外何とかなってる。周りに人がいるからだ。周りの連中がカバーしてくれる。そんなもんだよ。何とかなるんだ」
時川はやはり、絶妙な笑みを浮かべている。眼鏡の奥の端正な目が細まった。
「察するに、沢山悩んでるんだろ? ならもう、バカになってもいいんじゃないか」
「時川さん、いつも馬鹿のふりしてますもんね」
室井がいつもの調子で口を挟んだ。時川は振り返りはせず、視線だけ背後を示唆し、「はは」と笑っているとは思えない棒読みで言った。
馬鹿のふり……考えたこともなかった。陽太は未知の思考にすっかり押し黙る。しかし陽太が口を閉ざしたのは、時川の意外な提案に思案しているからだけでない。
……いや。
ムロ、コウちゃんのことそういう意味で好きだったのか?
「大丈夫だぜ溝口さん」
時川は、唇で弧を描いた。
「そんなに皆、正統な人生を送ってるわけじゃない。それぞれの領域で問題を抱えているし、狂っていたりもする。大丈夫だ、きっと……それでも君たちは今まで、繋がってたんだから」
隣の謙人が息を吐いたのがわかった。謙人の横顔は、幾分か柔らかくなっている。
「馬鹿なフリして素直になってもいいんじゃないか。私はとても素敵なヘタレだったと思うぜ」
「……え、俺と言ってること同じじゃね?」
「話者によってこうも響きが違うとは」
「おい、もう着くぞ」
谷田と室井がそれぞれ口にし、謙人が車内に声をかける。陽太だけでなく、皆に聴こえるように。
話しているうちに地元へ戻っていた。陽太の家も幸平のアパートも見えてくる。
ここらに詳しくない謙人が「あのアパートか?」と訊いてきた。
陽太は「あぁ」と頷く。
いつ見ても、古びたアパートだった。すぐ裏手には、陽太が高校まで住んでいた一軒家もある。つまり数十分前に母を送った家だ。もしも幸平がアパートにいるなら、入れ違いになっていたことになる。
もしかしたら幸平と会えたのかもしれない。
すれ違わずに済んだのかも。
ふいに、未来のことを考えた。
……これからもすれ違うのは嫌だ。
幸平に会いにいく。そう決めたのだから、踏み出さなければ。
停車した車から一歩踏み出す。目に入ったのは、すぐそこにある階段だ。
その下には、あの箱が残されている。幸平の部屋は二階にある。
見上げて、陽太は目を見開いた。
あの部屋の窓が開いていたからだ。
……やはり人が、住んでいる?
陽太の次に時川が降りてくる。彼が「幸平くんの部屋は」と声をかけてきた。
その時だった。
「は?」
「……」
時川は低い声で呟き、陽太は無言で『ソレら』を見上げている。
窓から降ってきたのは、数十枚の一万円札だった。時川は足元に落ちた一万円を拾う。続いて降りてきた谷田が「あ? 何だこれ」と怪訝に言った。陽太は時川の手にした一万円札を見た。しわくちゃのお札……まるで強く握りしめたような。
あぁ……。
陽太は気付いた。
これは自分の元へ戻ってきたのだ、と。
同時に、迷いなく、踏み出す。
そこには、あの古びた箱がある。
一瞬、脳裏を過ぎるのは夕暮れ時の光景だった。まだ幼い幸平と陽太がその箱の前でしゃがみ込んでいる。小さな陽太が箱を開いた。幸平が小さな笑みを浮かべている。
二人の残影を胸に押し込めて、陽太はあの箱へ手を伸ばす。
——そこには、秘密兵器が眠っている。
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