50 ゲーム

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【第七章】  何度か側面を擦ったようなトラックに乗せられて向かったのは、懐かしいあの街だった。  高校二年の進級時に母と弟と引っ越してからは、あのアパート付近には二度しか帰っていない。  一度目は卒業式の日……陽太に告白した時だ。二度目は、つい昨日の夜。  陽太は昨晩、待ち合わせにやって来なかった。幸平は一晩中を一人で過ごし、一人でこのアパートへ向かい、此処を去り、一人暮らしの部屋に帰ってきた。  だが、一人ではなかったらしい。 「朝っぱらから、お前みたいな男が彷徨いてるから、まさかと思ってつけたら本当にそうなんだもんな」  この数年で急激に老いた様子の父は言った。  そう。父が尾いて来ていたのだ。 「久しぶりにあんな動いたわ。三ヶ月ぶりくらい」  年老いたと思ったけれどそれは外見だけで、確かに皮膚は黒ずみ乾いていたが、眼光は凄まじい。二階のこの部屋まで、幸平の腕を掴んで半ば引き摺るように連れてきた父の力は強く、その強引さは健在だった。 「何とか言えよ」  黙りこくる幸平に、父が言う。  連れられてやってきたのは、かつて住んでいたアパートの一室だ。 「おいっ!」 「……ここ、戻ってきたんだ」 「まぁな」  幸平は部屋の端に佇んでいる。父は窓際に座り込んで、札束の枚数を数えていた。 「下のババァが相変わらずウルセェんだけどさ」 「……」 「お前がガキの頃も、お前がピーピー泣くからあのババァ煩くて仕方なかったよな」  父はこちらに目を向けず、唇の端を上げた。  『ババァ』は、下の階に一人で住んでいるお婆さんだ。まだ父と進と幸平の、三人で暮らしていた頃、夕方に父が出掛けた後、手作りの夜ご飯を持ってきてくれたことが何度かある。  家に入れなかった時も、幸平と進を部屋に迎えてくれた。たまに父は、あのお婆さんにも怒鳴り声を上げるから、それが本当に嫌だった。 「お前、この金どうしたんだよ」  男は札束を数えながら吐き捨てた。  この人はいつ、アパートに戻ってきたのだろう。  大家さんもきっと、父に脅されて部屋を貸したに違いない。  気を抜くと眩暈がする。父は嘲笑って言った。 「またこそこそ貯めてたのか」 「……バイトしてるから」 「あー、ほんっといい金蔓だな」  中学の時にこっそりバイトをして貯めた金も、この人に盗まれた。  しかしあの時と違って、その金は幸平がバイトで貯めたお金ではない。バイトの金は家族の口座に振り込んでいるが、その札束は違う。  陽太から渡された一万円札だ。引き出しに纏めて入れて置いたのを、突然幸平の部屋に押し入ってきた父が見つけ出したのだ。  どうして金の在処を直ぐに見つけることができるのだろう。いつも、不思議だった……。  それから父は部屋に留まらずに、幸平をこのアパートへと連れ込んだ。これは不幸中の幸いだ。あの部屋にいたら、帰ってきた谷田達にこの男を見られることになるから。 「この金どうするつもりだった?」  煙草に火をつけながら父が問う。 「どうもしない」  幸平は単調に答えた。  本心だ。陽太に渡された金には、一円も手をつけていないし使うつもりもない。  一服した父は、歪に微笑んだ。 「じゃあ俺がもらってもいいよな」 「……っ」 「お前らのこと育ててやったんだから」 「……」 「でさ、リリコどこいんの?」  ……来た。  幸平の部屋でも訊かれた台詞だ。  父が幸平を見つけ、後を尾けて部屋にまで突撃してきた本当の理由。 「帰ってきたらどこにもいねぇから腹立って仕方ねぇよ」  父は母を探している。そのために幸平に迫ったのだ。  一応は、陽太に渡された金だが父はそれを手にした気でいる。だからもう、これで満足したかと思ったのだけれど、諦めてなどいなかった。 「リリコさ、今どこ住んでんの? ……そういや、進だっけか。アレもいたよな」  この男から母や進の名を聴くと、気が遠のきそうになる。男は立て続けに聞いてきた。 「あのガキは働いてる? 今、何歳? あいつらも金持ってる?」 「……持ってない」 「は? 何でテメェに分かんだよ」  男は手元にあったティッシュの箱を幸平へと勢いよく投げてきた。  幸平はその場から動けないので、箱の角が太ももに当たる。うまくぶつけられたことが面白かったのか、男は軽く笑いながら、更に言った。 「で、進は何歳?」 「……」 「は?」  父がまた、リモコンを手にとる。幸平はすぐさま答えた。 「まだ、中学生だから働いてない」 「へぇ。働けよ! で、お前だけ一人で暮らしてんの? お前もアイツら捨てたの?」 「……俺だけ、一人で暮らしてる」 「リリコどこいる? 教えるまで帰さねぇよ」 「……」 「もしかして知らないとか?」 「わ、し、知らない」 「嘘つけー」  父はケラケラ笑った。幸平は一連の応答に失敗した自覚があったので、そのリモコンを投げられないことを意外に思う。  いつも幸平には、この人の沸点が分からない。突然爆発的に笑い出すこともあれば、怒りをぶつけてきたりもする。 「父親に嘘つくとかいい度胸してるよ。次嘘ついたら殴るからな」 「……はい」 「お前を育ててやったの誰だと思ってんの」  幸平が「と、」と言いかけたが、その前に怒鳴り声が響いた。 「なぁ!」 「……」 「リリコの場所教えろっつってんの」  幸平はいつの間にか俯いていた。目元を隠す前髪に、男の怒号が突撃してくる。 「あのクソ女どこいんだよ!」 「……」  幸平は黙り込んでいる。舌打ちと、煙を吐く「ふぅ」と声が聞こえてきた。  するとそこで突然、閃いたように「あ、お前さ」と声色が変わる。幸平は少しだけ顔を上げた。 「俺の仕事手伝ってくんね?」 「え?」 「人手足りてねぇんだよ。俺んとこ来いよ。そんで、あの部屋解約して、部屋に払う分だった金、俺に寄越せばいいよな」 「……」 「今バイトだけだろ? 俺と働こうぜ。お前ヒョロいけど、若いからいいだろ。あー、お前、何歳?」 「……二十歳」 「ふぅん。じゃあいいよな。大人なんだから。バイトばっかしてフリーターやってないで、親に恩返せって」  この人は、幸平が大学に通っていることを知らないらしい。  男は笑い声を撒き散らしながら窓を開けた。煙草の煙を外に逃す。その火は幸平には遠く、熱など分からないはずなのに、まるで直ぐ近くに感じるように肌が熱い。  父はまた煙草を咥えた。灰皿をテレビ台の上から取って、短くなった煙草の先を擦り付けている。  そうして火が消えた直後だった。 「……お前、二十歳っつった?」  男が何かに気付き、手を止める。  そしてバッとこちらに顔を向け、目玉が飛び出るほど目を見開いた。  幸平を見上げ、 「そしたら、進、中学生じゃないだろ」  と恐ろしく低い声を出す。 「高校だろ。……嘘ついたのか?」  空洞みたいな真っ黒な目だった。男は奈落を二つ飼っている。それを見ていると、幸平は、絶望的な気分になる。  急激に枯れていく気持ちだ。心が乾涸びて、自分という存在が空っぽになっていく感覚。  ……でも俺は、父と血が繋がっている。いずれ自分も、奈落になるのだろうか。  と、途方もないことを考えた。 「嘘ついたよな。お前……リリコどこにいる?」  いつの間にか父が目の前に立っていた。つい今まで、幸平が立ち竦んで男を見下ろしていたはずなのに、なぜか立場が逆転している。  幸平は座り込んでいた。見上げると、鬼の形相をした父がいる。でも幸平にとって鬼とは、昔話や漫画の世界の存在ではなく、この人そのものを指している。  次の瞬間には、座っていたはずの幸平は畳に寝転がっていた。男は胡座を組んで押し入れに寄り掛かり、また札束を数えなおしている。  鬼は笑いながら、「金持ちだな」と嬉しそうに言った。  幸平はのそりと上半身を起こす。  頭がぼうっとする。途方もない、気分だ。始まりと終わりがわからない。いつまで、続くんだろう……。  すると、不思議なことが起きた。  ——ゴトッ  小さな音だったはずなのに、それはやけに響いて聞こえた。  何かと思うと、ズボンから携帯が転がっている。画面が明るい。受け取れなかった着信の通知と、メッセージが入っていた。  谷田と時川からそれぞれ着信が入っていた。見知らぬ番号からの電話もある。谷田からの《幸平、どうした?》や、《幸平先輩今どこですか?》は室井から。時川のメッセージが目に入った。 《溝口陽太さんが会いに来たよ》  幸平はその通知をじっと見下ろしている。  つむじに、男の「いつまで弱っちぃんだよ」と上機嫌な声が当たる。  幸平は、陽太の名前を凝視している。  ——『コウちゃん』  頭の中に、強くあの声が響いた。  ——『次は勝てるから』  もうずっと遠い昔の声が、今の幸平に届く。夕暮れ時に、傷だらけの幼い二人で笑い合っていた。二人でチーム、仲間だと言ってくれた陽太が、記憶の中から幸平に力強く笑いかけてくれる。  ……そう。ずっとこうして負け続けていた。  でも。  ――『まだゲームは終わってない』
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