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52 消えていく
次の瞬間には、幸平は陽太に抱きしめられていた。「コウちゃん」と感情に塗れたみたいな掠れた声が耳たぶを揺らして、体の内側に溶け込んでいる。とても強い力だった。苦しくなるほど。けれどその力は、ずっと……もういつからか分からないほど昔から強張っていた心を、柔らかく解すような抱擁だった。頬に熱を感じる。今、ようやく、涙が溢れ出していた。
またぎゅっと力が込められる。それをきっかけに、陽太が少しだけ身体を離す。
まるで撫でるように優しく肩を握ってきた陽太は、幸平の顔を覗き込み、
「ごめん、痛かった?」
と、抱擁の力強さは無意識だったのか、眉を下げた。
幸平は何故か知らないが、思わず笑ってしまう。無言で首を左右に振る。同時に、またしても靴を履いたまま入り込んでくる男がいた。
室井だった。彼は自分たちを通過し、父を組み伏せる謙人に加担する。
扉付近には、谷田と時川も立っていた。
啞然とする幸平に、陽太が「離れよう」と声をかけてくる。幸平は、今度は上下に首を振って、室井へ振り返った。
幸平の視線に気付いた室井が横目だけこちらに寄越す。
小さく、微笑んで、
「行ってください」
と言った。
目の奥に熱が走るのを感じた。幸平は、噛み締めた唇を解き、「ありがとう」と小さく頭を下げる。
室井が頷いた。
陽太に導かれて、扉へ向かう。
谷田がすぐに「幸平っ」と寄ってきた。
「大丈夫か!?」
「うん、何とか」
「お前っ、幸平……無事でよかった」
「……ありがとう」
「こっちは俺らで何とかするから、下行って離れてろよ」
「うん」
頷いて小さく微笑む。谷田は心底安堵した表情をして、「良かった、幸平。はぁ……下行け下に」と繰り返した。
陽太に手首を握られて、部屋から出る。同じように廊下に出てきた時川は、幸平、それから陽太へと視線を向け、
「警察は呼んだから」
と言った。
「二人は待っていてくれ。私は、なぜか二階から落ちてきた金を拾ってくる」
思い当たる節がありすぎた。慌てて「時川、俺も」と言いかけるが、
「大丈夫。二人は休んで」
時川はすぐさま遮って首を一度だけ横に振る。
言葉少なに時川は、タタっと外階段を降りていった。その背を見つめていると、同時に、時川とすれ違って上ってくる男に気付いた。
随分と大柄な、同い年風の男性だった。幸平には見知らぬ人物に見えたが、隣の陽太が「あ」と反応する。
「中田」
「溝口……と、黒崎か?」
中田と呼ばれた体格の良い男は、こちらに気付くと声をかけてきて、階段をあっという間に駆け上ってくる。
中田……?
正面から歩いてくる男を改めて眺めて、幸平はハッとした。
中田、それは、小学校の時クラスメイトだった彼だ。
「え、どうして」
困惑というより単なる驚きだ。目を丸くする幸平に、陽太が説明した。
「この間偶然会って、その時にコウちゃんの父親が帰ってきてること、中田から教えてもらったんだよ」
「溝口に言われて来てみたけど、お前の方が早かったんだな。……つうか、黒崎、どうしたんだその頬は」
幸平は手のひらで頬を抑えた。陽太が代わりに答える。
「悪いけど、あの部屋に犯罪者がいるから取り押さえんの協力してくんね?」
「犯罪者? ……黒崎の親父さん?」
「そう」
「分かった。警察は?」
「呼んでる」
中田は「そうか」と頷き、幸平を見下ろした。
子供の頃もそうだったが、やはり彼は逞しく成長している。幸平はまだどこか呆然とした心地でいて、うまく受け答えができない。まさか、中田が来てくれるとは思わなかった。
「黒崎、もう大丈夫だからな」
中田は短く言って、あの部屋の方へ去っていった。
幸平は思わず振り返る。そうして立ち止まる幸平の手を引いたのは、やはり陽太だった。
「行こう、コウちゃん」
「うん」
中田は部屋へと消えていった。一瞬だけ、昔の中田の面影が過ぎる。
……かつて中田は、幸平と陽太にとって倒す敵だった。
でも、今は違う。
たった今倒した敵を封じるために、中田は加勢してくれる。不思議で、言いようのない切なさに心が乱れた。ふわふわとした心地の幸平を導いてくれるのは陽太だ。
外階段を下り、階段下の段差に腰掛ける。背後にはあの箱があった。
まだこの騒動は街にさほど知られていないらしい。閑散とした空気が、たった今の嵐みたいな出来事とはかけ離れていて、現実感がなかった。
過去から戻ってきた暴力も、幻みたいな秘密兵器も、味方になってくれる中田や、やってきた友人たちも。
実際にこの目で見たのに、夢みたいに思える。
何よりも……、隣に陽太がいるなんて。
陽太は自分のジャケットを脱いで、幸平の肩にかけてきた。幸平は陽太の匂いがする上着をギュッと握って、「びっくりした」と眉を下げる。
「陽太くんがいるから」
「あぁ」
陽太はじっとこちらを見つめてくる。
一度も目を離さずに、唇を開いた。
「急いできた」
「ありがとう。まだドキドキしてる……色々と」
「もうすぐ警察来るから」
「うん」
「体、痛いよな」
幸平は唇を閉ざした。思い出すのは、「痛くないよ」と答えていた昔の自分だ。
それは陽太に対しても、進や先生にも……全ての人に対してそうだった。
自分の痛みを明かすのは恐ろしいことで、幸平はその領域に踏み出そうとすら思っていなかった。
でも、今の幸平は自分でも意外なほどに呆気なく、
「うん、痛い」
と答えられる。
そして、苦しげな表情の陽太へ、
「でも勝ったから」
と笑いかけることだってできた。
そう、勝ったのだ。
少し想いを馳せれば、これまでのすべての糧になったあの言葉が蘇る。
——『俺とコウちゃんはチームだから』
——『チーム? 二人で?』
——『チームっていうか、二人で一組』
幼い頃に結んだ絆はまだ、繋がっていた。あの秘密兵器はまだ、生きていた。二人で結んで勝つことができた。そして今では、他の仲間達もいる。
いつの間にか本物のチーム戦になっていたのだ。
すると、なぜだろう。陽太は幸平の顔をじっと見つめ、ふっと表情を緩めた。
茫然としたような表情で、凝視してくる。笑ってはいないし、勿論怒ってもいない。ただ、幸平を見つめる。
それだけをしている陽太を不思議に思って、陽太くん、と名を呼ぼうとした時だった。
「コウちゃん」
「うん?」
「好きだ」
幸平は、薄く唇を開いたまま固まる。
陽太はすると、解けるように笑みを浮かべた。
柔らかい微笑みをした陽太は、綺麗だった。
幸平は声も出ない。陽太の瞳には切ない優しさが滲んでいる。
こちらの胸が締め付けられるような、微笑みだった。
「コウちゃん」
陽太は幸平にだけ聞こえる微かな声で言った。
「好きだよ」
静かな朝と、嵐の後の凪みたいな心に、「コウちゃんは」と陽太の声が溶けてくる。
「俺のこと好き?」
驚きで声を奪われた心地だった。
だが、その陽太の言葉には容易に答えられる。
「うん……好き」
幸平は小さくつぶやいた。小さいけれど、それとは真逆の渾身の深い思いだ。
幸平は息を吸って、また一度
「好き。陽太くんが好きだ」
と告げる。
最後の『好き』は声が強くなった。たった一瞬で胸に溢れかえった陽太への感情が、声に乗り移ったから。
陽太はそれでも、躊躇いなく真っ直ぐに幸平を見つめていた。決して逃さないような視線に捉われながら、幸平は彼の言葉を知る。
「じゃあ、普通の幸せ全部無しになっていい?」
陽太は、また目元を震わせた。
幸平は息を吸って、呑み込む。
絞り出したような声が幸平に触れた。
「このまま、俺が好きとか言わなければ……コウちゃんの心を確かめたりしなければ、いつか俺たちも離れて、コウちゃんは俺以外の……誰かと結婚して、子供ができて、俺たちが見たこともないような、絵本みたいな家族ができるかもしれなかった」
陽太は幸平を震える目で見つめ続けている。
「昔の俺たちじゃ知らなかった、普通の幸せな人生があったかもしれない。……でも」
でも、幸平も、陽太から目を逸らさなかった。
「俺はやっぱり、コウちゃんがいないとダメだから」
陽太は辛そうに目を細めた。
一度唇を噛み締めて、囁く。
「コウちゃんの、『幸せな家族』、全部壊してもいい?」
——不意に蘇るのはかつての自分たちの幼い声だった。
イチイチイチイチの夜明け前、ここで未来を語り合った。
『幸せな家族』を口に出したのは幸平だ。夢見ていた。進が何も知らずに布団で眠れる夜を。あたたかい部屋で両親に囲まれながら、何の疑問もなく好きなご飯を食べられる家族。
自由に遊べる庭で、何も気にせずに大声を上げられる世界。クリスマスにはプレゼントがある。外は寒くても、ケーキを食べる部屋は関係ない。その部屋の隅っこにいる必要もなくて、夜は物音がしてもぐっすりと眠れる。
——『幸せな家族になりたい』
でも幸平は知らなかったから、未来に想いを馳せた。
隣で同じように『幸せな家族』の世界を紡いでくれたのは、陽太だ。
——『なれるよ。コウちゃんは将来、幸せな家族を作るんだ』
子供の陽太は弾けたようにそう言って、笑ってくれた。
大人の陽太が、真剣な表情で告げる。
「コウちゃんが作るはずだった幸せな家族、全部なかった世界にしていい?」
今にも泣きそうに、目が潤んでいた。
「ごめん。俺といたって何も、残せないけど」
声が痛ましいほどに震えていた。また一度言葉を呑み込んだのが分かる。もうこれ以上は吐き出せない。そんな声だった。
それでも、陽太は続けた。
「プレゼントも、渡せる子供はできないけど。いっぱいの家族は無理で、俺だけだけど」
「陽太くん」
だから幸平は、陽太の代わりにその言葉を預かるのだ。
「ずっと二人で生きていこう」
陽太が唇を引き締める。
幸平はふわっと唇を解いて、陽太の顔を覗き込んだ。
「俺は陽太くんがずっと好きだった。これからもそうだよ。陽太くんがいればいい。陽太くんがいるなら、これ以上なんて望まないし、陽太くんがいないなら何の意味もない」
幸平はどうしても、陽太を笑顔にしたかった。
もう辛い顔なんてやめて、頬を和らげて。泣かないでほしい。だから幸平から笑顔を見せた。頼もしい言葉なんて分からないから、ただありのままの心を吐露する。
陽太くん。
これが本望だ。
「だから二人で生きていこう」
「……やっぱコウちゃんは強いな」
すると、陽太が呟いた。語りかけるというより、確信した時の独り言みたいな声だった。
陽太はゆっくりと瞬きをする。一筋だけ涙が伝った。泣かないで、と願ったのにその涙は見惚れるほどに綺麗で、幸平はふと、あぁこれが見たかったのかもしれない、などと不思議なことを思う。
それから陽太は、「さすがコウちゃん」と屈託なく笑った。幸平はまるで先ほどの陽太のように、彼を見つめている。いっときも目を離したくない。
陽太が幸平の手を握ってくれた。とても、温かかった。
未来なんて不確かなのに幸平はもう、信じきっている。
これから二人で生きていくこと。夢見た世界が今、消えていく。箱の中にあった秘密兵器ももう無い。此処に在るのは、二人だけ。
でもこの現実が、一番幸平が思い描いた幸せだから。
嘗てこの眼で見たあの夜明けはとっくに溶けた。陽の光を詰め込んだ陽太の瞳は綺麗だった。光ある未来はこの人と作っていく。陽太を思い出にする世界なんていらない。幸平が欲しいのは陽太だ。陽太がいい。
……最後には本当の意味で、二人きりになるだろう。それは寂しくて切なくて、少し悲しいけれど、きっと待ち望んだ愛しい悲しさだ。
それまでの限りある未来で作っていこう。
一生分の思い出を、これからも。
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