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53 四度目の確認
【それから】
陽太に指示された通りクッションへ腰を下ろして暫くすると、コーヒーの匂いが漂ってくる。
ほろ苦い香りが鼻腔を擽った。そう言えばと思い出すのは、高校の頃に働いていたブックカフェが再オープンしたと昨晩に進から聞いた情報だ。
検索してみようと携帯を開く。時刻表示が目に入る十一月十二日の午前十一時を回ったところだった。
今朝、会ってから、もう一時間が経ったんだ。意外に思いながらもブラウザへ繋げると、昨日眺めていたページが開かれたままだった。
それは、一年以上前に投稿された例の質問小袋だ。
「コウちゃん、何見てんの」
マグカップを持ってきた陽太が目の前に腰を下ろす。
何見てんの、と聞きながらも陽太は、幸平が手にする携帯ではなく幸平だけを見つめている。
幸平はついつい微笑みながらも答えた。
「何かね、俺みたいな人」
「コウちゃんみたいな人?」
「そう。幸せになってほしい人」
陽太は「ふぅん」と頷いて、それ以上追求しなかった。
今朝から陽太はこの調子で、幸平に何か問いかけては、何でもいいから答えを聞いて、まるで安心するみたいに頷くのを繰り返している。
昨日はあのアパートでの事件の後、警察からの事情聴取を受けた。
解放は案外早かった。父は再犯だ。暫く警察が捜査に入るらしい。たまに幸平も聴取に呼ばれることもあるのだと。
ひとまずは解放された。警察署を出ると、陽太たちが待ってくれていた。少しだけ話してその日は、一人暮らしの部屋ではなく母と進が待つ家へと帰った。
それから三人で一晩過ごし、翌日の今日、陽太の部屋にやってきたのだ。
今日一日は陽太と過ごそうと昨日に約束していたから。
いつも会う時は、陽太の一人暮らしの部屋か幸平の部屋に現地集合という形が多かったが、今朝は違う。午前十時に駅で待ち合わせをした。まるで子供の待ち合わせみたいに早い時間。けれど陽太は遅れずにやってきた。それどころか、家まで迎えにきてくれたのだ。
母たちが暮らすアパートを出ると、陽太が待っているので驚いた。待ち合わせ場所は陽太の最寄駅のはずだったが、彼曰く、
「居ても立ってもいられなくて」
迎えに来てしまったのだと。
幸平は「そうなんだ」「ありがとう」と言った。陽太は「うん」といつもみたいな無表情で言った。けれどその表情はどこか、いつもよりも柔らかい。
手は繋がなかったし、歩く時の互いの距離も変わらない。決して触れ合ったりはしない間隔で、歩いた。
それでも、道中から陽太の雰囲気は変化していた。
まず、合流してから近くの駅に向かう最中も、陽太は「コウちゃん、朝飯食べてないよな。どっかで買おう」と積極的に話しかけてくる。
「パン好き?」
「好き」
「じゃあ、パン買おう。そんでウチで食おう」
「そうだね」
「パンでいい? 他に食いたいもんある?」
「パンでいいよ」
「パン好き?」
「うん、好き」
「そっか」
二度目の『パン好き?』は意味がある質問だったのか少し気になったが、陽太が満足そうなので置いておく。こうした会話はその後も続いた。
電車に乗っている最中も、陽太は止まらない。小声ながらも「コウちゃん、電車好き?」と聞いてくる。
正直好きも嫌いもなかったけれど、「うん、好き」と答える。嫌いでもないなら、好きということにしている。陽太は「じゃあ、車は?」と質問を重ねた。
「車も好き」
「そしたら俺、免許取るわ」
「え、わざわざ?」
「速攻で取る。今のうちに。そんでドライブしよ」
「いいね」
「ドライブ好き?」
「分かんないけど、多分好き」
「そっか。電車も好き?」
「好きだよ」
「ふぅん」
陽太はやはり、どことなく嬉しそうだった。
駅から陽太のマンションへ向かっている最中も、あらゆるカフェやレストランを指差し、「パンケーキは?」「タイ料理好き?」「あれは韓国料理」「これは犬」と、会話というより問いかけを投げてくる。
だから幸平も、「甘いの好き」「食べたことないけど、タイ料理も多分好き」「韓国料理美味しい」「犬、好き」と答える。陽太はその度、「そっか」と目を細めた。
途中でパンと、美味しそうなプリンを買って、陽太の部屋に帰宅した。
帰ってきて早々陽太は「昨日部屋整理したから」と見たこともないグレーのクッションを取り出し、「コウちゃんはここ座って」と誘導する。
「こんなクッションあった?」
「実はあった。コウちゃんが座ったらいいなって思ってた」
「へぇ」
身体を預けられるほどには巨大なクッションだ。言われた通り腰かけると、思ったよりも体が沈む。声なく驚き、それから「すごいね」と陽太を見上げると、
「写真撮っていい?」
と既に携帯を構えた真顔の陽太がいた。
「え? ……いいよ」
「ありがとう」
「何で写真?」
「欲しいから」
「……」
「眺めてたい」
眺めるんだ……。
撮ったのかすら分からない一瞬だった。陽太はサッと携帯を後ろポケットへ仕舞って、「珈琲淹れる」と腕まくりをした。
その腕にはタトゥーが彫られていた。キッチンへ向かう気怠けな歩き方は陽太独特で、様になっている。
そんな陽太が朝から必死みたいに質問ばかりなのは面白いし、可愛いなとすら思える。
熱々の珈琲を運んできた陽太は、携帯を眺める幸平に何を見ているのか訊ね、それから続けて「コウちゃん、寒くない?」と聞いてきた。
「寒くないよ。何でこの部屋暖かいの?」
幸平は首を振りながらも疑問に思う。
今、帰ってきたばかりなのに。
陽太は「家出る時、暖房入れたから」と答えた。
「そうなんだ。だからあったかいんだ」
「寒がったら嫌だから」
「え……俺が?」
「そう」
幸平は思わず唇を結ぶ。陽太は気にせずに「部屋も掃除した」とテーブル越しに、カーペットへ腰を下ろした。
「……そうだったんだ。陽太くんの部屋、汚いイメージないけどな」
「いや、かなり掃除した」
「へぇ」
「一晩中かかった」
「一晩中!?」そんなに?
「そう。俺、しばらく家帰ってなかったし」
「……え? どういうこと?」
「実は」
と陽太が語り出したのは衝撃的な事件だった。
曰く、陽太はここ二ヶ月ほど過激な好意と執着を受けていた。いわゆるストーカーというやつだ。
盗撮写真を送られてきたり、奇妙な物体を送りつけられたり。終いにはこの部屋に盗聴器も仕掛けられていたらしい。
犯人は、高校の同級生だった芹澤という女子だった。
「そ、そんなことが、起きてたんだ……」
そうだったのか。
幸平は一人納得する。だから最近の二ヶ月、この部屋に呼ばれなかったのだ。
「ま、解決したし」
「捕まってよかったね。芹澤さんも、警察に?」
「いや、まだだと思う」
「まだ?」
「大丈夫。明日とか明後日には警察行くらしい」
「……そういうものなんだ?」
「うん。もうこの部屋には盗聴器もないから安心して欲しい。一応発見器作動させたけど、何の反応もなかった」
「そっか。陽太くん、大変だったね……大丈夫?」
「俺が?」
陽太はきょとんとした顔をする。幸平としては衝撃の話題だったが、陽太はなぜかふわっと微笑んだ。
「確かにやばかったけど、今は平気。つうか、コウちゃんがそこ座ってるのが嬉しくてそれどころじゃない」
「……」
「そのクッション買ったの、一年くらい前なんだよ。コウちゃんが座ったらすげぇいいなって思ったんだけど、なかなか出せなかった」
「そうなんだ」
「やっぱいいわ。すっぽりおさまってる感じがいい。似合ってる」
「ありがとう……」
今朝会った時から、薄々気付いていたことがある。
陽太はこの一時間でよく喋り、よく質問し、何よりも、素直に気持ちを伝え続けている。
彼が意識してそうしているのか、無意識なのか、判別はできないが幸平はむず痒くて仕方ない。それはもちろん嫌な気持ちではなく、恥ずかしくて、とても嬉しい。
心を擽られている気分だ。陽太からどう見えているか分からないけれど、心だけなら真っ赤に染まっている。
陽太は「芹澤のことは今度話すとして」と話を端に置き、また真剣な顔をした。
「それでさ、コウちゃん、俺ら付き合ってるんだよな」
「……付き合ってるよ」
ちなみにこれは四度目の確認だ。
一度目は昨日の別れ際だった。『俺ら恋人ってことだよな』と。
二度目は、メッセージだ。どうやら幸平が事情聴取を受けている間に陽太は携帯を買いに行ったらしく、夜に送られてきたメッセージで、《俺、彼氏ってことだよな》と。
三度目は今朝会った時に言われた。『おはよう、コウちゃん。あのさ、昨日の話なんだけど、俺、彼氏で合ってる?』
そして今。
「俺って、コウちゃんの彼氏で、コウちゃんは俺の彼氏だよな」
「うん。そうだよ」
とは言え、何度確認されても丁寧に答えたくなるので、自分も相当重症だとは思う。
「俺は陽太くんの恋人」
「だよな。あー良かった。なんか焦る」
「そっか」
「よっしゃ。パン食べようぜ」
陽太はパン屋の袋を膝に置いて、俯いた。癖っ毛の前髪に隠れた顔が、堪えきれないとばかりにニヤついているのが分かった。
何と言うか……。
わーっと叫び出したい気分だ。
こんな陽太は、親友だった子供時代でも見ていない。
ゼロから構築されていく、新しい陽太だ。
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