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つんとしたにおいが、電車内を漂う。 シートは全体的に色褪せて、茶なのか朱なのか、すでに判別がつかなくなっているが、特に座面と背面の、最も荷重がかかる部分はさらに薄くなり、ほとんど白っぽく変色している。 そのところどころに、人々の汗や疲れが染み込んでいると思うと、古里(こざと)はつい腰を浮かしたくなるのだった。 ——夏の電車は苦手だ。汗と皮脂と疲れの粒子が強力な冷房によって押し流され、皮膚の上で冷え固まっていくような心地悪さを覚える。 古里はしばし迷ったのち、捲っていたシャツの袖を伸ばした。 ここ最近の異常な暑さと、冷やされすぎた室内との温度差に悩まされて、結局は一年中、長袖のワイシャツを脱げずにいる。 ここから待ち合わせ場所まではたったふた駅だが、ひと駅通過しただけで、あっというまに体が冷えてしまった。 きっと、待ち合わせしている店も冷房が効きすぎているのだろう。 汗ばんで冷たく湿ったシャツが、風に煽られて肌を撫でる。その感触に思わずまぶたを閉じると、半袖のTシャツ姿の彼が浮かんだ。 最後に会ったのはゴールデンウィークだったが、あの時はまだ長袖のシャツを着ていた。 半袖姿——四季を通して彼を見たことは、まだ一度もないのだ。 しかし、まるで記憶の前借りをするかのように、半袖のTシャツ姿で笑う姿、そして皮脂や汗とは無縁の、よく陽に干されたいい匂いまでが、くっきりと映し出されるかのようだ。 ようやくだ。やっと、夏の彼に会える。 次の降車駅のアナウンスが流れてくると、まわりが鞄に本をしまったり、スマートフォンをポケットに入れたりして、慌ただしくし始める。 次の駅で、乗車客の半分はまるごと入れ替わるはずだ。 古里は胸元を摘んで風を送り、自身から同じにおいがしないことをそっと確かめてから、背筋を正した。 それから左右を軽く確認し、スマートフォンのインカメラを鏡代わりに、すばやく前髪を整える。 電車が減速し出すと、一度伸ばした袖をふたたび腕まで折り、ゆっくりと立ち上がった。
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