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参 みるくゆがふ
いつからか。
夜になるとカサコソと音を聞くようになった。
経済状況が中流くらいのチョンガーむけアパートの一室にて。
部屋に住んでいる男は、それほど気にしなかった。
疲れて帰り、風呂入って癒され、万年床の横の座卓で好きなDVD見ながらメシ喰ってゴロゴロして、彼女からLINEが来たらメールしたりしゃべったり愛をたしかめ、食器洗いのち持ち帰りの仕事があればこなし、それもすみ歯磨きして、明日出すゴミなどまとめ、本読みながら寝落ちる。
そんな生活の基本ルーティーンにほんのちいさな音が入りこんで、気にするほど神経質な性格の男でもなかった。
お笑いのDVDで爆笑してる背中で、カサ、とか、コソ、とか。
どうせ虫だろ?
それか何かがこすれたんだろ?
あはははは!
ミスターベーターやっぱ面白ェ。
芸能人さんて何かしらやらかすなァ。
でも才能に罪はないのよ。
生きたかったみんなの前に出たかった、たとえばそのヒトの子どもたる才能さんは、親たる芸能人さんになんかやらかされると閉じるしかないから、かわいそうだよな。
なんてしんみりしたある夜。
ガサッ
はっきりとした音に身がすくんだ。
背後から。
妙な音がこんな続くか?
気配も感じた。
さすがにふりかえった。
虫が居た。
「っだあァァ!?」
男の絶叫。
虫が居た。
ヒトほどの大きさの、黒いヒダを持つ赤い蜘蛛のような虫。
触角らしいヒゲみたいのがヒクヒクしてんのがまた不気味。
「え、はァ!? はあァ!?」
男は布団かきよせて、座ったまま後退する。
「待て待て若造、わしの何に驚く」
虫の口らしき部分が動きそんな声が発せられた。
男は心臓が激しく打ちすぎて胸が空洞になったかのように感じていた。
「え、怖いから」
声は出た。
「何が怖い?」
「大きいから」
「で?」
「喰われないかな? て」
「つまりお前さんが死ぬかもしれないから怖いんだな?」
「かもしんねっス」
「素直なやっちゃな。わしゃ別にヒトなんか喰わんわ。ふつうのメシ喰うわ‥‥あれ? 今わしどう見えとる?」
「赤い蜘蛛みてーな不気味な」
「あー、はいはい再統合失敗か。技術課め、まただ」
虫が触覚と口以外も動く。
これはたぶんその技術課とやらにあきれ、肩をすくめたのだろう。
「わし人間よ。未来のな」
虫はおだやかな中年男性くらいの声で説明してくれた。
しかしまず男が麦茶なぞ硝子コップで提供すると、おおすまん、と、ひとなつこい反応して、ストローを虫と吸った。
その口ではコップでは飲みづらかろう、との男のおもてなしは正解だった。
ちいさく息して、虫が語るにはこうだった。
これからいくらかして、人類は争いのはてに弥勒世果報を成す。
ちょっとしたいさかいはしつつも、安寧の世界を実現させる。
皮肉にも戦争が呼んだ超技術が平和転用されてそうなれるのだ、と、虫は自嘲気味な声音でもらした。
で、だ。
娯楽を求める研究の一端でタイムリープも可能になる気配を見せた。
未来にも過去にもダイヤルあわせられる。
ただしまだ、実験段階。
この虫のおっさんのように、チャレンジ精神あふれる被検体が古今東西に実験的リープをしている。
「いちおう訊くが、タイムリープとは何かご存知か?」
「未来や過去を行き来すんだろ? 本で読んだし漫画やアニメ見たぜ」
「うんよしよし」
だが、虫のおっさんの世界ではスムーズにリープするために体を霧状に解体、目的地の時空で再統合、する技術を適したモノとして研究を進めてんだけども、どうも。
このおっさんのように虫になれるだけ、命たもてるだけ、マシ。
再統合の失敗で体が崩れ死亡に至る、尊い犠牲をいくらはらったか。
「へー、で、おっさんは人間にもどれんの? ヒトの形に」
「出発点に帰り処置を受ければなんとか」
「大変だな。がんばってくれ」
「おうよ。そんじゃ邪魔したなすまんかった! さらば」
虫は一瞬でかき消えた。
あとには虫の飲み終えたコップに、使用済みのストローが物憂げに居た。
つけっぱなしだったテレビの現実感が、男には遠かった。
「あー、なんだったんだあれ」
歯磨きをしたら、さっさと寝ちまおう明日も仕事だ、と布団に入る。
めきょ
またなんか音。
まさか。
横になったままおそるおそる室内を見わたすと、居た。
今度はピンクの象さん。
子供くらいの大きさの。
きょろきょろしてる。
あのさ俺なんもキメてないんだけど、さっきのおっさん(推定)の置き土産?
「あのー‥‥」
男はしかたなく体を起こし、象さんにこれこれ話した。
「あ? なにお前二回目なの? それわしだよ並行世界の」
「俺にとってまたなのは変わんねだろ」
「ま、この時空のそう云う地点になったっつーことよ、すまんがここは」
「いいからお帰ンなさい。俺寝るの」
「はっはっは、すまんな若人。あばよ」
その夜の男の夢は、蜘蛛と象のラインダンスをながめるバルにて酒とピンチョスを楽しむ、と云う異国情緒あふれるモノだった。
どっかの気さくな青年と仕事の話がはずみ、名刺交換するところで目がさめた。
それから数日、変なおっさんの来訪は四回くらいあってまだありそうだ。
「俺、疲れてんのかな?」
とある晩は彼女の部屋で、缶ビール片手にうつむいた。
「えー、おもてなしの名残りはあんデショ? 現実なんでしょ?」
「だから余計イヤでさァ」
「実害は?」
「ん? あー、それは特に。俺がビビるくらいで」
「ね、私もそこに行っていい? いっしょに未来人のおもてなししよーよ」
好奇心旺盛な彼女の、それがほぼプロポーズの言葉だった。
めでたく結婚したふたりは未来人の通過点になる部屋で、それを種に何かしら表現する仕事を始めた。
なんとか喰ってけてる。
いろんな未来を知った。
のどかな初春の日、桜餅と緑茶をたしなむふたりは、ただ青い空をながめた。
戦争につながる空。
されどそのむこうの、平和にもつながる空。
「どの未来でも、居ような。いっしょに」
「うん。居ようね」
うないぐみさんの、『弥勒世果報』が耳かすめ天へ昇って行った。
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