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昔、実家で犬を飼っていた。父がまだ生きていて、母が向日葵のように笑う明るい人だった頃の話だ。 私が生まれる少し前に、父が拾ってきたらしい。家から三百メートルほどのところにある古びた石橋の下で、毛布にくるまっていたと聞く。その毛布が、中で震える子犬にはとても似合わない、やけに鮮やかなオレンジ色をしていたから、という何とも単純な理由で、彼女はレンと名付けられた。
どんな血が混じっているかも知れない典型的な雑種犬だったが、彼女は本当に美しかった。風に輝く栗色の毛、きれいに通った鼻筋、利口そうにまっすぐ見つめてくる瞳。
彼女とともに外に出ると、同じく犬を散歩させている人たちは決まって立ち止まり、「美人さんだね」とその長い毛を撫でた。
「きれいな目だね」
「絨毯みたいな毛並みだ」
「上品な犬だね」
道行く人は皆口々に彼女の美しいところを挙げた。しかし、誰も私が愛する彼女の本当に美しいところをわかってはくれなかった。
私は、彼女の耳を本当に愛していた。もはや、恋をしていたのかもしれない。
ベッドに入れば、その可愛らしい薄桃色をした耳の内側を、そっと人さし指の腹で撫でながら眠った。顔の横に垂れたそれは、花弁のように見えた。レンに精いっぱいの愛を伝えながら、抱きしめて、その羽のように積もった薄い毛を眺めた。
もしもこの子が死んだら、それはとても悲しいことだけれど、せめてこの美しい耳だけは、切り取ってでも残してやろう。幼いながらにそう心に決めていた私は、既に世間一般で言う「普通」からは外れていたのかもしれない。
まだ喋ることもできない頃から、私は両親の耳を触るのが好きだったらしい。さぞ煩わしかっただろうと思うが、二人はどうやら、それを一種の愛情表現だと受け取っていたらしい。私に耳を弄ばれるたびに大の大人二人が無邪気に喜んでいたというから、呆れたものだ。
私はただ、耳が好きなだけなのに。
しかしその思い込みのおかげで、私がレンの耳に執着している異様な光景も、両親はただ微笑ましく眺めるだけで済んだ。私が彼女のことを心から愛しているからこその愛であり、キスであると信じて疑わなかった。
そんな愛する彼女も、私が全寮制の高校に入学すると同時に寝たきりになり、二度目の帰省となる一年生の正月休みには、もう我が家にその姿はなかった。
獣臭のしない我が家は知らない家のようでひどく居心地が悪く、玄関でしゃがみこんで泣いた。置いていった古いスニーカーには、レンの歯形がいくつも付いていた。
勉学に専念してほしいという両親なりの優しさだろう。彼女の死は、私の帰省まで伝えられなかった。その優しさは胸の奥深くに刺さったまま、今もなお取れないでいる。
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