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 朝の5時、パンの焼ける香ばしい香りが漂ってきたのを合図にナディアは洗濯物を干す手を止めて台所に駆け戻る。使い古されたミトンに手を通し、窯の蓋を開くと中からパンを2斤取り出した。 「んー!美味しそうに焼けてるわ」  小麦の香りを鼻いっぱい吸い込むとおなかがぐぅっと音を立てた。今すぐにでもこのパンにかじりつきたい気持ちを抑えてナディアはパンを型から外しラタンの網かごに二つとも乗せて上から麻の布をかけた。それを手に取り、ナディアは足早に家を出て走り出した。 「おはよう、みんな!」 ついた先は、町の西にある孤児院だった。顔を洗って支度を済ませた子どもたちがパンのにおいをかぎつけて次々と食堂に入ってくる。ナディアの顔を見るとみんな嬉しそうに挨拶を交わした。 「ナディ、おはよう!」 「おはよう!」 「おはよう、リゼット。風邪はよくなったみたいね。アーチュウ、ちゃんと顔を洗った?」 子どもたちに声をかけながら、ナディアはパンをスライスして用意されている皿に乗せていく。すべて切り終えるころに、院長や世話係のリリアーヌが現れた。 「おはよう、ナディア。毎日本当にありがとう」 「おはようございます、院長。本当はもっとたくさん持ってこれたらいいのだけれど……」 「毎日焼きたてのパンが食べられる子どもたちは本当に幸せよ。これ以上なにも望まないわ」 院長はナディアの手を両手で優しく包み込んだ。しわしわな手はとてもあたたかくナディアの心までも包み込んでくれるようだった。 「さぁ、パンが冷める前に頂きましょう」 ナディアも院長の隣の席に座り、祈り十字をきった。毎日、パンを焼き孤児院へ届け、そこでみんなと一緒に朝食を取るのがナディアの日課だった。ナディアは、ここの領地を治めるリシャール伯爵の3人兄妹の長女だ。しかし、伯爵とは名ばかりで、痩せたこの土地では、作物もあまり育たず、住民はとても貧しく、納めてくれる税金は雀の涙ほど。リシャール伯爵は、国から拝受する給金を崩してなんとか切り盛りしていた。そのためナディアの家はとても質素な暮らしを強いられていた。  ここの孤児院の運営は、主体は国だが、満足のいく金額はもらえておらず毎日の食にありつくのも精一杯の状態だったのを見かねて、リシャール伯爵が僅かではあるものの寄付をしている。更に、人手も足りていないため、長女のナディアが毎日手伝いに足を運んでいた。 「来週には、野イチゴが摘めそうだから、ジャムにして持ってくるわね」 食パン一枚だけの食事を終えたナディアが言うと子どもたちから歓声が上がる。 「ジャムなんていつぶりかしら!」 「楽しみ!」  野イチゴのジャムでこんなにも喜ぶ子どもたちを見てナディアは胸が締め付けられる思いだった。身寄りがいないだけでも不憫なのに、食べるものも満足にありつけない境遇の子どもたちがいるという事実。それをどうにもできない自分の無力さにもいら立ち、そして悲しくなる。自分にもっと財力があれば、この子たちに不自由させない暮らしをさせてあげられるのに、と。 「じゃぁ、わたしは戻りますね。洗濯ものを干してこなくっちゃ」  お礼をいう子どもたちとハグを交わして孤児院を出ると、ナディアは家族の待つ家に戻った。  ナディアには両親と弟と妹がいる。弟は7歳、妹は5歳とまだ幼く、家事手伝いすらままならないどころか、まだまだ手のかかる年頃。長女のナディアはもうすぐ18歳になろうとしていた。すでに結婚適齢期のナディアだが、自分に結婚は無理だとあきらめている。その理由は、彼女の顔にあった。  残りの洗濯ものを干し終えて、ナディアは水を汲みに行った。桶に水を入れ、その水面に浮かぶ自分の姿を見つめる。鼻から上、仮面舞踏会で着けるような仮面をつけているその顔は、ナディアの本当の顔を映していなかった。  仮面の下、左のこめかみのあたりから左目を覆うように紫色の痣が広がっているのだ。それは生まれつきだった。子どものころは仮面など着けずに過ごしていたが、物心がつく頃には、周りの同年代の子どもから指をさされたり、お母さんが遊んじゃいけないって言われた、と避けられたり、「呪われた子」と噂されるようになり、ナディアの両親が見繕ってくれた仮面を着けるようになった。  呪われた子を「嫁」に迎えてくれる奇特な人など現れるはずもない、と結婚という選択肢は端から持ち合わせていなかったし、ナディアを必要としてくれる孤児院や領地の人々がいることが何よりの救いであり居場所となっていた。  水を汲み終えたころには、弟のレオンと妹のシャルロットが身支度を済ませて起きてきた。 「お姉ちゃん、おはよう」 「おはよう、二人とも。さ、顔を洗ったら朝食にしましょ。タオルはここに置いておくからね」 二人を残して台所に向かうと美味しそうな匂いがナディアの鼻をかすめた。今日はもしかして目玉焼きかしら、と足取りが軽くなる。 「おはようございます、お母さま」 「おはよう、ナディア。今ちょうど呼ぼうと思っていたところよ」 台所で朝食の準備をしていたのは、ナディアの母アナベル。伯爵夫人が料理をするなど、社交界では考えられない話だが、リシャール伯爵家は使用人を雇うお金すらも領地の人々の暮らしのために費やしてしまっていた。ちょうど数か月前にも竜巻が発生したせいで田畑が荒れ、果樹も被害を受けたせいで領地の人々の暮らしがより厳しくなり、納税額の免除や修繕費の援助などで蓄えがが底をついた所だった。 「今日は目玉焼き?」 「えぇ……でも2つだけだからあなたたち三人で分けてちょうだい」 申し訳なさそうに言う母に、ナディアは精一杯の笑顔でいう。 「私はさっき孤児院で朝食は済ませたところだから、レオンとシャルロットで一つ、お母さまとお父さまで一つずつ召し上がってくださいな」 目玉焼きの良い匂いにお腹がなりそうになるのを必死にこらえて。 「そうなの……?ならそうさせてもらおうかしら……」 「あ、そうだ!マグリットさんに柵の修理を頼まれていたんだったわ!今から行ってきます」 いってらっしゃい、と母の声を背にナディアはその場から立ち去った。
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