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一話 ②
だが今から三年ほど前、いつもとは違うことが起こった。最初に拾われて以来裏方の誰もが嫌う仕事ばかりで、対面すら許されなかった執事にゲヘは呼ばれたのだ。呼び出したのがレント伯爵ではなかったことを残念に思うが、近頃隣の領主であるブライトマン伯爵に嫌がらせをされていて、その対応に苦慮しているらしいことは盗み聞いたメイドたちの噂話で知っていた。よくは知らないが、領主ともなればその他にもやるべきことも多く、忙しいのだろうとゲヘは訳知り顔で自分を納得させた。なんせ自分はレント伯爵に認められているのだ。たとえ執事の呼び出しであってもそう命じたのはレント伯爵のはず。だから些細なことなど気にせずその期待に応えなければと、改めて執事の方を見て、執事の傍に少年が立っていることに気づいた。ゲヘが軽く触れただけで飛んでいってしまいそうなくらい小さく、そして少年は恐ろしく美しい容姿をしていた。惜しむらくは右頬に残る火傷の痕だ。それがすべてを台無しにしているようで、ゲヘは少年に同情──、哀れみの視線を向けた。
だが執事に少年を指導するように言われ、ゲヘの表情は一変する。ニヤリと笑い、やっぱりなと思った。指導するということはこの少年を自分の下に置くということを意味する。しかもレント伯爵の命令で、執事が直々に紹介するくらいだからきっとこの少年は高貴な身分なのだろうとゲヘは誤解した。少年が着ている物が自分とそうは変わらないことに気づくことなく、この高貴な少年を指導するとなればそれなりの立場が必要となるはず。だったら自分は出世して最低でも下僕、もしかすると執事見習いにでもなれるのではないかとほくそ笑む。だが執事からは身分は下男のままだと言われひどく落胆したが、続く執事の言葉に落胆から歓喜へと変わった。ゲヘはその分厚い唇を歪め、下卑た笑みを浮かべた。
「ソレは『奴隷』だ。指導はお前に任せる。ただ──」
ゲヘは理解した。なぜ自分に奴隷を与えられたのか。昇格はなかったもののやはり自分の仕事ぶりは認められていて、褒美として自分に『おもちゃ』を下さったのだ。
それからゲヘは少年に指導と称して理不尽な暴力を振るった。名を許されず声を上げることも許されない少年は、どんな暴力であってもただ黙って耐えることしかできない。その姿はゲヘをひどく悦ばせた。嬉しくて愉しくて、できるだけ長く愉しむ為に命を奪わないギリギリのところで最大限の痛みを与えた。
彼らの主人であるレント伯爵が少年を買ったのは、ただの気まぐれだった。そして元々飽き性のレント伯爵は、少年を買ってすぐに興味を失い執事に丸投げした。丸投げされた執事はそれを下男、ゲヘに投げた、ということだった。褒美でもなんでもなくただの厄介払いだった。そしてレント伯爵は執事に少年を丸投げしてすぐに少年のことは忘れてしまっていた。それほどレント伯爵にとって少年はゲヘと同様になんの価値もない、どうでもいい存在だった。
ゲヘは今日も土足で出入りする裏口から続く部屋の床を、汚れひとつ残さず綺麗に拭き上げるように指示を出した。外は雨が降っておりそこは人の出入りも激しい。いくら頑張って拭いたところで床が綺麗になることはない。拭いても拭いても出入りする人の靴についた泥で汚されるからだ。それが分かっているからこその指示であるが、ゲヘはそれを暴力と暴力の繋ぎ、休憩のように思っていた。少年にとってなんの休憩にもなってはいないのだが、そんなことはゲヘにとってなんの関係もなかった。
ゲヘは下男といいながら無視されたりバカにされることはあっても暴力を振るわれることはなかったが、少年に暴力を振るい、酷く扱うことで今まで自分が受けてきた屈辱を晴らせる気がしていた。少年に意味のないことをやらせるくせに自分の仕事をやらせないのは、ゲヘのちっぽけなプライドのせいだった。自分がやっている仕事は自分だからできることだというプライドだ。
「……っ」
ゲヘに蹴られ壁の傍で蹲る少年は、痛みはあるはずなのに呻き声すら上げないのを見て、ゲヘは「泣き叫べ、じゃないともっとひどく痛めつけてやるぞ」と笑う。そして「どちらにしても痛めつけてやることに変わりはないがな」とさらに暴力を重ねた。少年は身を縮め、黙って嵐が過ぎるのを待つのみ。ひとしきり殴る蹴るをしたゲヘは満足気に息を吐き、「サボるなよ?」とだけ吐き捨てるように言い残すと自分の仕事をする為にその場を離れた。少年はよろよろと身体を起こし、なにごともなかったかのように床を拭き続けた。
そんな少年を気遣う者は誰ひとりいなかった。
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