110人が本棚に入れています
本棚に追加
/38ページ
番外編 3 恩人 ③ (ノイア視点)
「リヒト、しっかり掴まるのだぞ」
急なことだった為朝起きたらすぐというわけにはいかず、政務をしっかりと終わらせた後あそこへと向かうことになった。あの少年は屋敷で大人しく留守番だ。メイドを数名つけたので心配はないだろう。愛馬に跨りリヒトをその前に横乗りで座らせ、しっかりと私に抱きつかせる。久しぶりのふたりだけのおでかけに目的を思えば不適切だが、心が踊っていた。愛馬を撫で、「頼むぞ」と声をかけ横腹に合図を送る。
「はっ!」
走り出してしばらくはリヒトは私の胸に顔を埋めていたが、慣れて余裕がでてきたのかちらりと見た流れる景色の速さに感嘆の声を上げた。
「うわぁ……。馬ってこんなに速く走れるんですね」
そういえばいつも移動は馬車で、こんな風にスピードを出すこともなかったな。もっともっと楽しいことをリヒトに教えたい──。
「そうだな。これよりももっと速く走れるが──。今度リヒトも乗馬の練習でもしてみるか? その気があるのならリヒトに合う大人しい馬を見つけてこよう」
「本当ですか? 嬉しいです。それで、いつかノイア様と馬に乗って色々なところにいってみたいです」
そう言って嬉しそうに笑うリヒトに愛おしさが募る。その後に「あの子も連れていきましょうね」と続かなければもっとよかったんだがと苦笑する。
あの場所に近づくにつれ私は腕の中にある温もりが温かければ温かいほど胸が痛んだ。私にはこんなにも愛おしと想える存在がいる。──私の恩人にもそう想える相手がいればいいのだが……。
本当は気づいていた。あのボロ小屋に住む恩人は、レント元伯爵の使用人だったに違いない。そうでなければあんな小屋とはいえ見逃されるはずがないのだ。私は似たような環境にあっただろうリヒトを救った。リヒトだけを。本来なら恩人である者を救うべきだったはずだ。なのにあのときの私の頭の中にはリヒトのことしかなかった。今更そんなことを後悔してみても過去は取り返しがつかないのだと分かっている。だからリヒトに私がいるように、恩人にも誰か──愛し守ってくれる者がいればいいのに……と思ってしまうのだ。そうすればこの罪悪感も少しは軽くなるだろう。だがそんな相手もおらず、今も尚恩人が苦しんでいて私に助けを求めたなら全力で助けたいと思う。だが、愛を求められたら……応えることはできないが、恩人をこんなにも長い間放置していたことへの贖罪として受け入れてしまうかもしれない。そう考えると見つからないことに少しだけホッとしている自分もいて、ますます自己嫌悪に陥ってしまうのだ。
「──ノイア様……?」
私の様子がおかしいことに気づいたのか、リヒトは心配そうに私の名前を呼んだ。流石にこんなことを考えているとは言えず、微笑んで返すのみに留めた。
それからすぐに目的地である『あの場所』に到着した。愛馬からひらりと飛び降り、リヒトを抱えて降ろした。
「──ここに小屋があったのだ。私は恐らく小屋で暮らす者に助けられた。だが私は自分のことで精一杯でなにも言わずに帰ってしまった……」
私が見つめる先には花畑が広がっていて、十年も経っているのだから当たり前なのだろうが、小屋が建っていた形跡すら残ってはいなかった。私が黙り込んでいると、リヒトが一歩前に出て小屋の跡地へと近づいた。そして、
「──強い風が吹けば飛んでしまいそうで、雨の日には雨漏りもしました。でも雨は貴重な飲水だったから、雨が降ると安心したんです。寝床にしていた藁も最初はほんの少しで、少しずつ藁を増やしていって──。普通では考えられないくらい劣悪な環境でした。小屋の中はすり潰した薬草と他の色々な匂いが混ざりあって本当にひどい匂いで充満していて、あなたは意識もないのに眉間にこう皺を寄せて──」
と、リヒトはそのときの私の真似をするように眉間に皺を寄せて見せて、「ふふふ」と笑った。
──待ってくれ。なぜリヒトが小屋のことを知っている? 私はそこまで詳しく話してはいない。──いや、リヒトは当時レント元伯爵のお屋敷で働いていた。だったら小屋の様子であれば知っていてもおかしくはない。おかしくはないが、私の様子について知っているとすれば実際見た者かまったくの口からでまかせということになるが、リヒトに限ってそんなことはあり得ない。だとしたら答えはひとつ。
「──私の恩人は……リヒト……?」
呆然として呟く私にリヒトは微笑んで、こくりと頷いて見せた。
「…………っ」
言葉もなく俯き、涙を流す私をリヒトの小さな身体が抱きしめる。
本当は『恩人』はリヒトなんじゃないかと思うこともあった。同じような劣悪な環境に身を置くふたり。片方は消え、片方は私と共にいる。それが本当はふたりではなくひとりであったなら──私は既に恩人を救っていたことになる。だが万が一違っていたら? 違うと言われてしまったら? 恩人は別にいるということになる。そうなった場合、私は恩人にもリヒトにも顔向けができないと思った。だから私はそれが怖くてリヒトに訊いて、真実を知ることが怖かったのだ。
だがリヒトは恩人しか知り得ないことを言い、自分がその恩人であると認めた。ではなぜ私になにも言ってくれなかったのか──。
「なぜ?」
「僕は……その……。ノイア様を看病しているとき、あの……」
リヒトは頬を朱に染め、もじもじとして言い淀む。
「リヒト」
なにを言われても大丈夫だという意味を込めて名前を呼び、先を促した。それを見てリヒトはこくりと頷いた。
最初のコメントを投稿しよう!