一話 ③

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一話 ③

 それから数時間の後、自分の仕事を終えた上で充分に休憩したゲヘは未だ床を拭き続けていた少年の元へとやってきて、ダンっと足を鳴らした。仕事(・・)が終わったという合図だ。ビクッとして顔を上げた少年をひと睨みして、いつのものなのかカチカチに硬くなったパンを放って寄越した。それが少年の一日分の食事になる。受け取ろうと伸ばした少年の両手をすり抜けて床にカツンと音を立ててパンは落ちた。少年は落ちたパンを拾い、ぺこりと小さく頭を下げた。どんなに硬くても床に落ちたものであっても食べられるだけマシなのだ。大事そうにパンを胸に抱え、寝床にしている屋敷から少し離れた場所にある小さな小屋へと向かった。小屋といってもおよそ人が住む場所とは思えないような家具の類なんて一切ない、ただ屋根と壁があるだけの人ひとりが横になるのがやっとの小さな掘立小屋で、寝床には藁を薄く敷いたのみだった。屋敷で飼われる犬でさえこの小屋よりも広い部屋にふかふかの寝床が用意されているという。食事だって日に一度あるかないかの少年に比べ、お腹が空けばいつでも食べられるというのだから少年の扱いがいかに酷いかが分かるというものだ。  先にも述べたが少年は名を持たない。正確には親に付けられた名があったが、今から六年ほど前両親が亡くなり、引き取ってくれたはずの親戚に両親が残してくれた僅かばかりの財産も奪われ、自身も奴隷として売られてしまった。そのときに名を奪われた。新しい名は主人となった者がつけるという。  当時十二歳だった少年は幼いながらも美しく、どこか色気もあるように思えた。今すぐにでも愛玩奴隷として売ることも可能だが少年を買い取った奴隷商は、こんな掘り出し物をこのまま売るのは勿体無いと考えた。手間とお金はかかるが、どうせなら貴族向けの愛玩奴隷としてその価値を上げようと思った。きっとかかった費用の回収どころかその何倍、いや何十倍もの儲けが出るはず、と奴隷商は笑いが止まらなかった。  少し痩せ気味だった少年に栄養のある食事を充分に与え、毎日風呂に入れ肌を傷つけないように磨き上げた。風呂上がりの髪や肌の手入れも忘れない。見た目だけでなく教育も多岐にわたり、少年の好奇心を刺激した。少年は両親が生きていたころでも考えられないような恵まれた(・・・・)生活に、この身を売ってくれたことに感謝すらしていた。少年は両親に守られ愛されて育った為、『奴隷』という言葉は知っていてもどういう存在なのかは知らなかったし、『愛玩』という言葉にいたっては聞いたことすらなかった。美味しいものが腹一杯食べられて勉強までできるのだ、将来就ける職に夢が広がるばかりだった。だが少年は奴隷であり、少年が夢見るような選べる将来なんてものはありはしないのに──、少年はなにも分からない純粋無垢な子どもだった。  それから三年ほどの時が流れ、買い取り手を探す前の仕上げ(慣らし)の段階で、少年は初めて『愛玩』という言葉の意味を知り、指南役から逃れる為に無我夢中で暴れたことで右頬に大きな火傷を負ってしまった。火傷はひどいもので、痕が残ってしまう。こうなってしまえば『愛玩』としての商品価値はないに等しい。高価な薬を使えば治るかもしれないが、これまでに少年に使った時間とお金を考えるとこれ以上はなにもしてやりたくなかった。あんなによくしてやったのに、恩を仇で返された。すべてが無駄になったと知った奴隷商は怒り狂い、奴隷は奴隷でも犯罪奴隷と同じ扱いも可能として安価で売り出した。人は高価なものに対しては丁寧に扱う。だがそれが安価であれば──どうなるかは想像に容易いだろう。  そうして少年がレント伯爵に買われても名は与えられず、「おい」とか「お前」などと呼ばれ、ゲヘからの嫌がらせのような指示に従い、黙って暴力を受け続けることになった。育ち盛りであるのに過剰なまでの労働と悪質な環境、不十分な食事、すべてが少年にとって辛く厳しいものばかりだった。最初のうちは亡くなった両親のことを思い出すこともあったが、今では顔すらも思い出せなくなっていた。ただ生きる為に硬すぎるパンを喰み、欠けて捨てられていたボウルに貯めた雨水を啜る。そして糸が切れた人形のように眠るのだ。現在少年は十八歳。それがレント伯爵の屋敷での奴隷としての三年間だった。
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