二話 ①

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二話 ①

 その日はいつもと少しだけ違っていた。といっても仕事はいつも通りだったし、ゲヘからは相変わらず理由があってもなくても殴る蹴るの暴力を受けた。  少年はゲヘから解放されると、与えられた半分しかない硬いパンを胸に抱き、ボロボロの痩せ細った身体を引きずるようにして寝床へと帰っていた。その途中、少年は僅かな呻き声を聞いた気がした。立ち止まり、耳に全神経を集中させてみると、確かに苦しみ呻く誰かの声が聞こえた。  少年は声のする方へと慎重に歩み寄る。なにをされても声を上げず表情も殺してきたが、心が死んでいるわけではなかった。だから『痛み』は誰よりも分かるし、声の主がどういう状況にあるのか分からないが、もしも困っているのなら助けてあげたいと思った。息を切らしながら草を掻き分け進んだ先にいたのは、剣で斬られたのか腹部を血に染め、痛みに苦しむ青年だった。少年は急いで駆け寄って青年の身体を少しだけ揺すってみたが、青年の意識はなく苦しそうに唸るだけだった。見れば斬り傷以外にも多くの打撲痕が見られた。少年はどうしてこんなことに? と青年を見るが、今はそんな場合ではないと思い直す。少年がキョロキョロと辺りを見回し、青年の他に味方も敵も誰もいないことを確認していると、苦痛に身じろいだ拍子に斬られた腹部を押さえていた青年の立派な腕がどさりと地面に滑り落ちた。少年はギクっとなり、反射的に少しだけ後退った。目が覚めたならゲヘのように問答無用で少年に殴る蹴るの暴力を振るうかもしれない。今ならまだ逃げられる、少年は震えながらそう思った。  少年にとって大きな腕は、優しく抱きしめて自分を守ってくれるものではなく、自分に痛みを与える恐ろしいものだった。だが少年は逃げなかった。たとえそうなったとしても、痛みに苦しむ青年をこのまま見捨てることなんてできなかったのだ。心を決めて、自分より何倍も大きく立派な体躯の青年をなんとか背負った。意識のない身体は想像以上に重く、少年は何度も青年の重みに潰されそうになりながらも、自分のことより青年に負担をかけないように注意しながらなんとか寝床へと連れ帰った。気休め程度しかない藁の上に寝かせ、青年の色々なもので汚れた服をなんとか脱がし、裸にした。本当は新しい服を着せたいところだが、少年は今着ているボロボロの服しか持っておらず、サイズ的にもそれは叶わなかった。とりあえずはそのまま、少年が持つできるだけ清潔そうな布をボウルに貯めていた雨水で濡らし、青年の身体を拭き清めた。だがすぐにボウルの中の雨水は血や汚れで濁り、とても使えたものではなくなってしまった。まだ充分に拭けたとはいえない。このままでは傷が膿んで、怖い病気になってしまうかもしれない。そうなればもう少年には青年を助ける術はない。だからせめてもう少し、綺麗な水を使って拭かなくては。綺麗な水といえば屋敷の敷地内にある井戸から汲む他ない。もしも見つかりでもしたらなにをされるか分からない。それに少年が見つかることで青年も見つかり、どんな酷い目にあわされるか分かったものではなかった。だがそれでも綺麗な水は必要なのだ。少年の喉がゴクリと鳴る。少年は覚悟を決め、慎重に慎重に、誰にも見つからないように屋敷にある井戸から水を汲んで、運んだ。少年にしては大胆な行動だったが、それが自分の為ではなく青年を助ける為だったからできたことだった。  もう一度綺麗に洗った布で青年の身体を拭き、残った水を青年に飲ませようとするが意識がない為口の端から零れるばかりだった。少年はうーんと唸り、浮かんだ考えににこりと笑う。まずは水を自分の口に含み、口移しで青年に水を飲ませる。少年も仕事(・・)から続く重労働で喉が渇いていたはずが、自分のことは二の次だった。ごくりと上下する青年の喉を見て頷き、嬉しそうに微笑む。何度か繰り返し、汲んできた水がなくなるともう一度井戸から水を汲みにいった。青年が目を覚ましたとき、水があるといいと思ったからだ。運がいいことに二度とも誰にも見つかることはなかったことにホッとする。そして自分も簡単に身体を拭き、おずおずと青年の傍に横たわった。寝具もなければ着替える服もないのだ。肌を合わせることで青年が少しでも寒くないようにしなくては。  青年の為としながら、少年は久しぶりの傍にある温もりに、穏やかな気持ちになった。だがすぐにだけど──、と思う。青年は身なりの良さから一般市民とは考えにくい。騎士か、あるいはその上の少年が想像もつかないほどの身分の人かもしれなかった。そんな人が剣で斬られ、ひとりで森のあんな場所で倒れていたのだ。ただごとではないはずだ。屋敷に働くゲヘ以外の使用人たちがレント伯爵が近々動く(・・)ようだと言っていたように思う。少年には『動く』とはなんのことを言っているのかは分からなかったが、メイドたちの表情からただ漠然とよくないことだとは思っていた。それがただの噂話であればいいが、もしも青年が怪我を負ったことに関係しているのだとしたら──そう考え、あり得るかもしれない未来に少年はぶるりと小さな身体を震わせた。
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