現実は夢幻の中に眠る

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「おはよう」  誰に向けて言っているのか。変哲のない部屋の中で言葉は響き、やがて空気の中に消え入るように溶け込んでいく。  私は何度か瞬きを繰り返して、ぼやけた視界を鮮明にしようと試みる。カーテンの隙間から差し込む光が目に飛びこみ、思わず目を眇めた。  ベッドの上で上半身を起こしながら、今日も一日が始まると、くだらなくて退屈な一日が始まると、そう思い軽くため息をつく。現実が色づけば色づいていくほどに、くだらない世の中に生きている実感が湧いてくる。いっそのこと、ずっと眠り続けて、起きることなく夢を見ていられたらいいのに。  カーテンを開け、清々しい朝日を全身に浴びながら、私は夢の中で見る幻を渇望した。何故人は、目を覚ますのだ。私の一日は、そんなことを思うところから始まる。  寝室を出て、頼りない足取りでリビングへと向かう。頭や心だけではなく、身体さえもまだ夢の中に浸っていたいと、そう言っているようで、少し微笑ましくなった。  キッチンでは、何時もと変わらない風景が展開されていた。パジャマ姿の妻が、せっせと朝食の準備をしている。  見飽きた光景だ。あの身体とあの顔と、あの匂いとあの動き。彼女を取り巻くもの全てが私の気力を奪い、やるせない気持ちにさせてくる。 「今日も、朝食は食べて行かないの?」  結婚してから、どれほど経ったのだろう。私の記憶が正しければ確か、五年ぐらいだったろうか。  五年の間に気持ちというものはこんなにも冷めてしまうものなのだな、と改めて思う。妻の手料理など、半年以上は食べていないのではないだろうか。  適当に返事を返してキッチン内に入り、妻に触れぬように自分でコーヒーを用意する。コーヒーが半分ほど入った大きめなマグカップを片手に持って、リビングにあるダイニングチェアに腰掛け、ゆっくりとコーヒーを喉に流し込んでいく。  いい香りだ。  妻が発する香りには飽きたけれど、コーヒーのこの香ばしい香りは、何度嗅いでも飽きを感じさせない。鼻腔を刺激して心を落ち着かせ、私の沈んだ気持ちを安らいだ状態にしてくれる。  妻と会話をすることもなく、スマホのトップページに置いてあるニュース欄を見ながらコーヒーを飲みほし、私は次に洗面所へと向かった。顔を洗い、そして自室に戻り黒色のスーツへと着替える。左腕には銀色の腕時計をはめて、お仕事スタイルの完成だ。 「行ってくるよ」  家の中での会話が極端に少なくとも、玄関先では必ず、玄関の扉を開けた後に彼女に声をかける。そうすることで、扉を開けた先に近所の人がいたとしても、仲睦まじい夫婦を演じることが出来るのだ。 たまには、これみよがしにキスをしてみてもいい。そうすれば、その光景を目にした隣人たちは自然と私たちの関係はとても良好なのだと、そう決めつけてくれることだろう。キスがもたらす結果を考えれば、多少の接触ぐらいは甘んじて受け入れよう。夫婦仲が良くないことで、近所のおばさんたちの井戸端会議のネタにされるのだけは、御免なのだ。
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