3人が本棚に入れています
本棚に追加
5章 献上
玉座の間はひたすら静謐だった。剣に向けられる歓声もなにもなく、ただ全ての者ががまんじりともせず、その剣を注視していた。
「たしかに神剣である。湛盧に勝るとも劣らぬ」
王は目を見開き、堪えるようにそれだけを述べた。
その言葉に不遜にも苛立ちを覚えた。私自身に対する苛立ちだ。この莫耶剣以上の神剣など存在しない。師らの血肉で作られた剣が何かに劣ることなどあるはずがない。
……けれども私は湛盧剣を見たことがない。だからその優劣は述べられない。欧冶子も師らと同じく神剣となったのだ。剣に神を降ろす。その狂気的な試みの果てに、莫邪師は目の前の剣となった。
だから……私は干将と莫邪が世に二つしかない神剣であると知るのみだ。
「拝命より3年要しました。誠に申し訳ありません」
「よい。よい。これほどの剣だ。何ほどの文句もあろうか。時にそなた、干将と言ったな。それは師の名前ではなかったか」
「私が干将を継ぎました。師はもうおりません」
場に鎮痛な沈黙がおりる。それも私を苛立たせた。師らは死をとしてこの剣を鍛え上げたのだ。だからその師は悼むべきものでではない。断じて。むしろその真逆なのだ。人を捨て神となった師らを讃えねばならない。けれども私には、その行為がどうしてもできなかった。
「そうか……。惜しい者を無くした。そなたも息災にせよ」
その声に頭を下げて宮廷を辞すと、抜けるような青空が広がっていた。
潮の香りが漂う。呉の国都姑蘇は長江が海に流れ落ちる手前にある大都だ。通商の要所で、荒々しい人夫が行き交っていた。私とお師様方が籠もっていた山とはまさに別世界だ。お師様方が神剣となられてから未だ半月と経過していない。けれどもすでに長い年月が経過したように思われた。
これからどうしようか。そんなことをこの青い空を眺めながら思う。二代目といえど干将として神剣を打ち、王に捧げたのだ。その名声を得て刀匠として独り立ちすることもできよう。けれども未だ、そのような気分にはなれなかった。
赤殿も同様だ。神剣というものは、あまりに異常だったのだ。私たちは人として、その神を恐れた。
赤殿は私にきっぱりと告げた。
「干将。いや、お前を父上の名で呼ぶのは些か抵抗があるな。しかし剣のことは任せた。無事に父上と母上を王に届けてくれ」
「分かりました。けれども本当に私でよいのでしょうか。赤殿が干将の名を継がずとも」
赤は軽く首をふる。
「干将莫耶を打ったのはお前だ」
確かに最初、私と赤殿はともに鉄を打っていた。けれどもいつのまにか、赤殿は工房に現れなくなった。
「俺は刀匠になるつもりはない。いや、俺にはこんな世界に足を踏み入れるのはどだい無理なのだ。それが心底わかったよ。俺は畑でも耕してこの家でのんびり暮らすのが向いているのさ。それに……」
赤殿は少しだけ言いよどみ、左右を見渡して私の耳に口を寄せた。
「実はな、子ができたんだよ」
「えっ」
突然の告白に驚いていると、あの山の工房の近くに住む農家の娘といつの間にか懇ろになっていたらしい。
「思えば父上と母上は、もとより人ではなかったのだ。あの生き方は到底俺にできるとは思えん」
赤殿は干将師と莫耶師の子だ。莫耶師は名匠欧冶子の子だ。お師様方は赤殿が道を継ぐことを求めていたのだろう。
けれども人は剣のみに生きるものではなく、お師様方は既に人の生を終えられた。だから……赤殿が自らの道を行くのはそれはそれで一つの人生だろう。……お師様方のあの最後の様子を思えば。
未だそれほど前のことではないのに、お師様らが人であられたころが遥か昔に感じる。あの火事場のある山は、おそらく仙境の端くれにでもあったのではないだろうか。終わってみれば確かに、天に至り、そして神に至る道であった。
この道は突き詰めれば神に至る修羅の道だ。人の進むべき道ではない。私は到底、自分では極められぬものをその目で見た。だから。だから私もこれから別の道を探すかもしれない。何も剣だけが道ではない。鍋や釜を作って糧を得るというのもまた一つだろう。それも立派な鍛冶師のしごとだ。
「干将剣は赤殿におまかせしよう」
「えっ待ってくれ。王に納めるのではないのか?」
「師らも王に神剣を二本を作れとは言われていない。干将剣は見ようによってはその文様は亀裂にも見える。不吉と言われかねない。莫邪剣だけで問題は何もないだろう」
そう述べて、干将剣を赤殿に押し付けた。干将剣もまんざらでもないのだろう、それを証するように剣の表の模様が揺れた。確かにこれは神の剣。干将師がここに宿っている。ならば、その一振りほどは子と、家族とともにあってもよいだろう。干将師は剣であるが、人でも在るのだから。
「困ったな。どうしたらいいんだ」
赤殿は少々戸惑いつつも、最終的には干将剣を受け取った。そして私は赤殿を工房に残し、王に剣を捧げた。
とはいえ結局のところ、私はせっかくの技術は捨てきれなかった。確かに、道の果ての神を見たのだ。忸怩と煮え切らぬままの心中を持て余しながら報酬の半金を赤殿に渡した後、残金で新たな地に旅立った。誰も私を知らない町で工房を作り、干将ではなく自身の名を使ってほそぼそと鍬や鋤、小刀などを打って暮らしていた。赤殿と違って所帯を持つ甲斐性はなかったのであるが。
つまり私も赤殿も別々の人間の道を歩き始めた。人間としての幸せを求めた。卑近な私たちには到底師らのように神を求めることなどできそうになかったのだ。だから師らのことはなるべく忘れるように、夢物語であったと思うことにした。
それから何もごとも無く五年程が過ぎ、突然舞い込んだ手紙に思わず膝を立てた。
至急参られたし。 干赤
最初のコメントを投稿しよう!