5章 献上

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 その手紙はしわくちゃで、赤黒く染まっていた。そして嗅ぎ慣れた鉄の臭いが鼻孔に触れる。そこから漂う濃密な死の香りにいても立ってもいられず車を呼んで飛ばした。  一刻も早くとお師様方の工房のあった山へと気もそぞろのまま走らせ、足を絡ませながら門を潜り、呆然とした。かつてお師様方とともに暮らした家は見る影もなく傾き倒れ、踏み荒らされ、いや積極的に床板まで剥がされ家探しをされたようだ。一体何がと思いつつそして震える足で奥の間に進めばむわりと血の匂いが漂い、大量の血だまりの上で二つの骸に挟まれて変わり果てた赤殿が座り込んでいた。  いや、踏み入れれば血は既に赤黒く、乾ききっていることがわかる。 「赤殿! どうなされたのです! この惨状は一体!」 「あ、ぁ……干将殿……か。死んでしまったのだ。俺を残して」  赤殿は私を虚ろな目で見つめ、血まみれになるのも構わず二つの骸を愛おしそうに抱き寄せて撫でる。まだ若い女と五歳ほどの男子だ。  そうか。これが赤殿の奥方と子か。変わり果ててはいるのだろう。未だその恐怖に見開かれたまぶたにそっと手を置き、閉じさせるとその姿は僅かに穏やかとなった。 「あ……干将殿、ありがとう。俺は……。すまない、二人とも」  そう言って赤殿はようやく泣き崩れた。すべての力を失ったように。  その隙間にぽつりぽつりと話された事情から聞き取れたことは、赤殿が家に帰ると既にこの惨状で、既に子は事切れ、妻は楚の軍、とのみ呟き事切れた。 「楚軍が一体何だというのだ。何故楚軍がここに来るのだ……?」  赤殿の叫びに私には思い当たることがあった。  先年、呉は快進撃を続けた。闔閭は楚に攻め入り首都(えい)を陥落させ、楚王の喉元に剣を突きつけた。あと僅かで楚を攻め滅ぼすことができた。  けれども長年の宿敵である(えつ)允常(いんじょう)が呉に攻め入り、允常と謀った闔閭の弟夫概(ふがい)が王を名乗り簒奪しようとした。そのため闔閭はやむを得ず楚王を追うことを諦めざるを得なかった。そのような中、私の住む地も騒乱に巻き込まれた。  その折、様々な噂を耳にした。その一つはこうだ。  莫邪剣は雌雄の剣である。見るものが見ればわかるそうだ。そしてそれらは覇王を導く剣。そして諸国の王は手に入れるために相争うだろう。欧冶子と干将師に作らせ、楚晋戦争を導いた太阿(たいあ)剣のように。  そして私のもとにも怪しげな男が訪れていた。莫邪剣に対の剣があるのかと尋ねるのだ。客を装ったその男の目つきは鋭く、嘘は隠せそうもなかった。だからその剣は失われた、とだけ述べた。  そういえばその男は楚の言葉が混じっていたような気はする。 「まさか……そんな……」  世界が真暗になった。私は思わず、頭を床に打ち付けた。 「どうしたのだ、干将殿」 「すまない、赤殿。私は店で莫邪剣の対の剣について尋ねられ、ないと答えたのだ。私が口を滑らせたから、その者が干将剣を探しにここまで来たのかもしれない。何ということだ」
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