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帰り道
「お前、なんでさっき違う名刺出したんだ」
山道を下りながら、後ろの高橋さんが僕に話しかけてきた。木々の隙間から、夕空が見える。ひぐらしの鳴き声が聞こえる。踏みしめた落ち葉が、くしゃりと渇いた音を立てた。
「や、ちょっと嫌な感じがして……」
高橋さんが言ってるのは、さっきの人に渡した名刺のことだ。出版社の連絡先は合っているけれど、名字を『田中』に変えてある。
「警戒する必要もない、ただのおばさんだろ」
「そうですね……」
確かに、どこにでもいそうな中年のおばさんだった。
だけど、後ろから「観光ですか」と声をかけられた時、左手の小指がぴりり、と痛んだ。静電気が走ったような感覚。昔から嫌な予感がすると小指が痛む。だから偽名の名刺を渡そうと思った。
僕と高橋さんはオカルト系雑誌『怪談噺』の編集部に所属している。今日は三か所パワースポットを取材した後、地元の人に「あそこの山もなかなか怖いですよ」とお勧めされた。予定外だったが場所が近かったので、下見に寄ることにしたのだ。
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