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その山は、住宅地の中にあった。山を切り拓いたが、そこだけ斜面が急で残された、といった感じだった。道路脇に沿って歩くと、「遊歩道入口」と書かれた古い看板の横から細い道が伸びていた。僕と高橋さんはそこから山に入った。
ゆるやかな山道は、ジグザグと折れながら上へと続いていた。十分ほど登ると坂道が終わり、頂上らしき場所に出た。「やっと着いた」という高橋さんの声がため息混じりで、疲れを感じさせた。草が生い茂っている。歩くと、さわさわと草の音がした。
「どのへんが怖いんだろうな」
「怖いというより荒れてる、って感じですね」
適当に写真を撮っていると、突然声をかけられた。
「観光ですか」
いつの間に現れたのか、Tシャツにジャージのズボン、肩にタオルをかけたおばさんが立っていた。
瞬間、僕の小指が痛んだ。急に帰りたくなってきた。
「いえ、実はこういう者でして」
適当に誤魔化せばいいのに、高橋さんは律儀に出版社の名刺を取り出した。
「高橋さん……」
おばさんは次に僕を見た。とっさに、リュックのポケットから偽名の名刺を出して渡した。
「田中といいます」
なるべくおばさんの手に触れないように渡した。
「お二人とも出版社の方なんですね」
「ええ、そうなんです。このあたりのパワースポットを取材していまして……地元の方ですか?」
高橋さんの言葉に、おばさんは「そうです」とうなずく。
「ここで特にいわくつきの場所とかモノとかありますかね?」と高橋さんはがっつくように続けた。
高橋さんは元々政治記者だ。雑誌の副編集長までなったのに酒の席で暴れたらしく、うちに飛ばされてきて一か月。「なんでもいいからスクープを手にして元の部署に返り咲きたい」という姿勢が目に見えていて、のんびりしている『怪談話』の面々とは合わず、敬遠されている。
僕はあたりを見回した。他に地元の人の姿はなく、いつの間にか妙に静かになっていた。さっきまで木の葉が風に揺れる音がしていたのに。
おばさんはひどくにこにこしていて、
「こっちの方に、『山神さまの口』がありますよ」と言った。
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