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神の口
「これは……すごいですね」
高橋さんと僕は、おばさんに案内されて巨大な岩の前にいた。
岩にはくりぬかれたような穴があり、奥へと道が続いていた。幅1メートル、高さ2メートルといったところか。地面も石で、ゆるやかな下り坂になっているようだが、先が見えない。
僕は以前見た防空壕を思い出した。いたずらで子供が入らないように柵がはめられ、施錠がしてあった。ここには柵がない代わりに、薄汚れた注連縄が張ってあった。入り口両脇に杭が打たれ、そこに結び付けられて、侵入者を拒んでいた。
高橋さんは穴の前にリュックを置き、中をごそごそ探って望遠カメラを取り出した。おばさんは興味深そうに近くに立って様子を見ている。
「どのくらいの長さなんですか」
写真を撮る彼の後ろから中をうかがう。フラッシュをたいても、行き止まりが見えなかった。
「歩いて五分といったところですかねぇ。中は一本道になっていて出口がふもとにつながっているんです。
ここに来る遊歩道入り口に看板があったでしょう。あの近くに出ます」
「へぇ! じゃあ行こうと思えばこっちが近道なんですね」
高橋さんの声が弾む。
「そうですね、遊歩道は曲がりくねっていますから、こっちの道はだいぶ楽ですよ。昔は『ここを通った子供は良い子になる』という地域の行事があったんです。良い行事だったのに廃れちゃって、残念だわ」
高橋さんとおばさんはわいわい話している。僕は鬼の口をのぞきこんだ。
ひゅうう、と風の音がして、冷たくて湿った空気が舞い上がってきた。
風が僕の頬を撫でる。また小指がぴりり、と痛んだ。
僕は後ずさりして、「じゃあこれで失礼します」と言い、逃げるように立ち去った。高橋さんが「おい!」と言いながら追いかけてきた。
そこで、名刺の話になったわけだ。
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