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穴の中は、大人が歩いて通れるくらい余裕があった。おばさんが話していた通り、ゆるやかな下り坂になっている。壁も道も、しっとり濡れていて鍾乳洞が連想された。自分の息遣いと、たん、たんと石の道を踏む足音が響く。
――昔は「ここを通った子供は良い子になる」という地域の行事があったんですよ。
あれはどういう意味なんだろう。子供が元気に育つ、とはまた少し意味合いが違うように感じられた。
良い子になる。
ということは、通る前は良い子じゃない?
この穴を通ることで、性格の悪いところが取り除かれる、とか……。
神の口。食べる。消化。
薄汚れた注連縄。荒れた草地。
昔は定期的に行事があって、ここの神が魂の一部を食べることができた。
それがなくなる。神の力が弱まる。
力を手に入れるためには、食べなくちゃいけない。でも人は滅多に通らない。
それなら――。
そこまで考えた時、先に光が見えた。
出口だ。
――ああ、やっぱりなにもなかったじゃないか。
ほっとした矢先。
「たなかさん」
あのおばさんの声。だがまるで変成器を通したようにノイズがかかっている。
2秒、3秒……。
僕は返事をしない。冷や汗が背中をつたう。
「たなかさん」
声が、だんだん近づいてくる。小指の痛みが増す。
「たなかさん」
僕はゆっくり、ポケットからお札を取り出す。
「たなかさん」
僕は走り出した。
「まって」
そんな声まで聞こえてくる。僕は走る。出口が近づく。住宅地の明かりが見える。振り返らない。
――今、振り返ったら、きっと――。
僕は唇をぎゅっと噛みしめて、ポケットのお札を後ろ手で投げた。
「きゃあ」と小さい悲鳴が聞こえた気がした。
足元に、アスファルトの感触。
僕は逃げ切った。
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