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「ねえ、あっくん、さっきの大掃除の時間、岡田先生に怒られてたでしょ」
一学期最後のホームルームが始まるまでの短い休み時間、隣の席に座る遥ちゃんが、僕に話しかけてきた。
「ちがうよ、しょうちゃんがしゃぎすぎてたから、巻きこまれただけだよ」
「でも、あっくんも楽しそうにしてたじゃん。ねえ、何の話をしてたの」
遥ちゃんは、にっこりと、優しい笑顔を僕に向けた。垂れ下がった柔らかそうな黒髪を左耳に掛ける。僕はその笑顔と仕草で、少し胸が弾んだ。
幼馴染で昔から飽きるほど一緒に遊んできたはずなのに、彼女は僕よりもどんどん大人へと近づけているなと、当時の僕はそんなことを思っていた。
しょうちゃんと話していたが、鰐の噂だなんて、遥ちゃんに知られるのは、子どもっぽいと思われそうで気恥ずかしかった。だけど、遥ちゃんに嘘はつきたくないという気持ちが少し上回った。
「みんなが盛り上がってる、ワニのうわさだよ」
「ああ、あのワニの、私も聞いたことある。あり得ないとおもうけど、ほんとだったら、怖いよね。だって、川で遊んでたらおそわれるかもしれないんでしょ、あっくんは本当に、あの川にワニがいると思う?」
僕は、はっきりと頭を横に振る。「ううん、絶対、嘘だと思う」
「そうなの?」と、今度は遥ちゃんはこくりと首を横に傾げた。
「アリゲーターガーって魚、知ってる?」
「名前は聞いたことあるかも、」
「口がワニに似てるからそんな名前なんだ。外来種の大きな淡水魚で、ペットショップやネットで普通に買えるんだけど、成長したら大人よりも大きくなるから、飼えなくなって川に逃がしちゃう人がけっこういるらしい」
「へえ、あっくんよく知ってるね。じゃあ、その魚が、あのワニの本当の正体ってこと?」
「そう思ってる。だって本当にワニだったら、大人たちが本気で捕まえようとするはずなのに、そんなことにはなってないから」
「なるほど。けどさ、私も松村君にワニの写真を見せてもらったことがあるけど、かなり大きそうだよね。1メートル以上はありそう」
僕は、記憶の中から、松村かずき君に見してもらったあの写真を思い返そうとする。生い茂る草木の中から、にょきっとでた細長い口のようなもの。たしかに、あれが本当に、生き物の口であるならば、全長はかなりの大きさだろう。
「もしあの写真に写っていたのが、アリゲーターガーなら、そのくらいあるかもね」
「だったらさ、その大きな魚捕まえたら、すごい注目を集められるかもね」
そう言った彼女の瞳は、心なしか輝いていて、好奇心を隠せない、といった様子だった。
「どうだろうね」
あえて、淡白に答えた。
「だって、その魚、危険な外来種なんでしょ? 見つけたら警察とか役所に届けたら、テレビにでれちゃったりして」
嬉々としてそんなことを言う遥ちゃんを見て、彼女にも、こんなあどけない一面があるのだなと感じた。そんな彼女と目が合い、視線を外す。
「ねえ、今日の放課後、あの川に行ってみようよ。本当にワニがいるのか探してみよ」
まさかの誘いに、僕は目を丸くした。
「本当にいってるの?」
「本当だよ」彼女はくすりと笑う。
「うーん、別にいいけど、」僕が言葉を言い切るより先に、彼女が、やったあ、と声を上げた。
「じゃあ、いったん家に帰って釣りざおと網を取ってくるよ」
僕がそう言うと、彼女は口元を押さえ、クスクスと笑いはじめた。
「釣り竿とでワニが捕まえられるのかな」
彼女に言われ、両耳が熱くなった。
「ワニじゃないから、アリゲーターガー、魚だから」
「ガーのほうね、ガーガー」と、からかうように言ってきた。彼女のくしゃっとした笑顔を見ると、怒りたくなる感情が湧かないのが不思議だった。
それから、彼女と、ああでもないこうでもないと、放課後について話し合った。やがて、「はーい、みんな席についてー」と、担任の女性教師、山田先生がいつものスポーツジャージの姿で教室に入ってきた。
ホームルームが始まり、プリントの配布や、一学期のまとめ、夏休みや二学期についての簡単な話が展開されていった。
「それでは皆さん、明日から夏休みですが、くれぐれも遊びすぎて宿題をするのを忘れないように。それと、大人がついていないときに、絶対に水辺や人気のない場所で遊ばないように。すでに水難事故や不審者の情報が、学校に多く寄せられています。私は、皆さんの元気で明るい笑顔を、二学期の始業式で見られることを心から楽しみにしています」
先生の号令の直後、クラスメイト全員、我先に夏休みへ突入だと言わんばかりに、廊下へと駆け出して行った。
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