あの川のうわさ

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 住宅街を抜け、田んぼのあぜ道を過ぎる。そして緑が生えた土手を登りきると、松村かずき君の目撃場所である、例の小さな橋が見えた。橋の横には、文字がすれて読むことができない看板が立っていた。  辺りには、僕たち以外の人影は見当たらなかった。たまに車や自転車が通りすぎていく程度で、ひと気もほとんどない。  さっそく、僕は持ってきていた食パンの耳を、釣り竿の針に付けた。そして、生き物がいそうな、川岸の草木の影が落ちている水面に向かって投げた。しかし、何度も投げてはみるものの、小魚一匹ひっかかることもなかった。小さなあくびを漏らした遥ちゃんを見て、僕は網の一本を彼女に渡すと、釣りは諦め、川沿いに生い茂る雑草の中を探索することにした。 「二手に分かれたほうが効率いいから」と、遥ちゃんはてくてくと橋を渡り、川の反対側へと向かった。  彼女が見えなくなってから、草木の中に入ろうとする。  網を振って雑草をかき分け、どんどんと進んだ。すると、急に足場が無くなり、がくんと重心がさがる。危うく川に落ちてしまいそうになったが、何とか、網で重心を保つことができ、右足のひざ下までが見ずにつかるだけで済んだ。すぐに右足を川から持ち上げる。  全身水浸しにならないで済んだと、安堵のため息が漏れた、と同時に、すぐ近くの水面から音が鳴った。水の跳ねる大きな音だ。  僕はその音がしたところに目を凝らす。しばらく目を凝らすが、何も見えない。だけど、ずっと静寂な水面を見ていると、あること想像してしまった。  本当に鰐が出てきて、今にも僕に襲い掛かってくるんじゃないかという想像だ。  それが、じわじわと膨れ上がってきた。脳内いっぱいに膨れ上がると、その場にいるのが怖くなった。このままここにいることに耐えることができず、逃げるように雑木の中から抜け出した。  土手の上へと戻るが、かと言ってやることもない。手持ち無沙汰になり、遥ちゃんの元へ向かうことにした。橋を渡り、川の向こう側へ移動した。  また、雑木の中に入るのは気が引けたが、恐る恐ると言った感じで足を踏み入れる。しばらく遥ちゃんを探した。が、彼女の姿が見当たらない。  声をかけても返事が返って来なかった。妙だと思い始めた。  飽きてしまって先に帰ってしまったのだろうか、そう思い始めたころ、ごそごそと、数メートル先から、雑草を揺らす音が耳に入った。 「遥ちゃん?」  ささやくような小さな声で言った。返事はない。  恐る恐る、音の鳴った方へと近づく。音の鳴った方の雑草は特に長く、先が見えなくなっている。  この先に何がいるのか。先ほどの、嫌な想像がまた、頭をよぎる。いや、こんな日本の川に、鰐なんているいるわけがないと、小さくかぶりを振る。  生唾を飲み込み、行くと決心する。ぎゅっと、力強く両手で網を握りなおす。そして、その網で雑草をかき分けようとした。その瞬間だった。先ほどの音が鳴った方とは反対側、土手の方から、ぶおん、という無機質な音が鳴った。突然の音に、僕は、体が飛び上がりそうになった。  音の鳴った方を見上げると、黒の軽自動車が、土手を通り去っていったところだった。車の発進時のエンジン音だと理解した。その音で先ほどの決意が揺らいでしまった僕は、音の鳴った雑草の中へ入るのを諦め、土手へと上がった。  それから、僕は橋や土手の上から遥ちゃんを探した。改めて、雑草の中にも入って探してみたが、やはりいなかった。結局、日が暮れるまで彼女は見つからなかった。やっぱり先に帰ったのだと判断し、僕は、一本の釣り竿と一本のタモを持って、その川を後にした。  しかし結局、その日が、遥ちゃんを見た最後の日となった。  彼女は家に帰ってなどいなかった。あの川に鰐を探しに行った三日後、遥ちゃんのお母さんが僕の家に訊ねて来た。彼女のお母さんは、その日に仕事から帰ってきており、そのため、遥ちゃんがいないことに気付くのが遅れてしまった。  そしてようやく、僕はあの日、遥ちゃんとあの川に遊びに行ったことを大人たちに告げた。  警察や多くの地元住民が動き、大捜索が始まった。あの川の雑草の中から、遥ちゃんの片方だけの靴と、破れた衣服の破片が見つかったが、遥ちゃんが発見されることはなかった。      
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