喪失

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 二人の歪な夫婦は、夜の中をゆっくりと進んでいった。そしてテントに到着してジュンを下ろし、ライエは待ちかねたようにキスを強請った。 「いつもご自分からされるでしょう」  甘えるような仕草に、ジュンは戸惑い頬を撫でた。今は激昂せずその手に導かれるまま身を委ねている。気味が悪い程、別人のようだった。 「さっきは怒ったろう。いいか」  ライエは自分が選ばれたことに優越感を得たのだろうか、ジュンは彼の喉元を撫でると子犬のような声がした。 「お好きに」  ライエはそっと唇を重ねると、いつもより優しく、しかし縋るように舌を這わせた。角度を変えて口をはみ合う様は、動物の口内点検によく似ている。 「ジュン、ジュン」  唾液と熱い吐息が混じり合い、ライエはジュンの上体を抱えてゆっくりと倒し、その体に腕をまきつけた。 「旦那様」 「ああ、ジュン。俺のジュンよ」  ジュンは息苦しさに両頬を挟み込むと、益々勘違いしたライエが勢いを増す。 「息ができません」 「俺のものだ。俺の花嫁。俺の、俺の」  その後もしばらく続き、唇を離すとライエはその首に鼻先を寄せて抱きしめた。いつもと違う彼に戸惑いが隠せなかったが、ジュンが体を抱きしめ返すと少しだけ抱き返される。 「俺を化け物と言ったな」 「それは」 「あれは傷ついたぞ」  ライエの拗ねたような顔にジュンは呆気に取られるが、先程までの狂った姿はどこにもない。それどころかいつもの彼もなりを潜めている。子を亡くしておいて、よくそこまで自分本位にできるものだと呆れたが、これぞチャンスとばかりに彼を甘やかした。 「私だって傷つきました。あんな乱暴な」 「お前は俺を置いていくな」  良いな、とライエが念押しする。ジュンはライエに瞼を撫でられ、目を伏せた。 「承知しました」  フッ、とライエの目が遠くなる。ジュンの少女から女へと変貌する様を見てきた男だ。出会った頃の、あの弓の達者な利発な少女の面影に思いを馳せた。  普段は自分勝手な事しか話さない彼の口が、ポツポツと静かに語り始めたのは奇跡に近かった。 「あの名も無き村で畜生に餌を与えていたろう。死にかけの子犬にだ。覚えているか」  少しの間があった。あまりにも懐かしい話題を挙げられ、ジュンはゆっくりと頷く。 「ええ」  覚えている、などという話ではない。どうでもいい出来事だ。ライエはジュンの鼻先に大きな指をちょんとつけた。 「嘘をつけ。……まあいい。あの時俺は決めたのだ。この娘なら、俺を愛してくれるだろう。あんな薄汚い獣にすら飯を恵むお前なら」  その話を初めて聞いたジュンの胸中は、穏やかではなかった。  そんなことで攫われたのならとんだ迷惑だ。しかし彼女は本音を隠し、目線をわざと逸らして彼の好意を焚きつける。するとかかった獲物は、ジュンの腹に手を伸ばした。彼女の体が恐怖で固くなる。 「あっ、やめて」 「痛くはないか。子供のことは残念でならない」  身勝手な謝罪に腸が煮えくり返りそうだ。  今更謝っても遅い。だが、その手はさわさわと羽毛のようにジュンを撫でるので、ジュンは彼を怒らせまいと身を固める。 「すいません」 「それはもう聞いた。良い、俺の話を聞け」  そこからは絵空事のような話の連続だった。ライエは遠い獣たちの島で王たちに反旗を翻し、破れ、この島に流れ着いた。  傭兵崩れの聞くに堪えない嘘の話だと思う反面、昔父が話していたことを思い出す。神話に近い、それこそ凡夫の者どもには関係のない話だ。  獣の姿をした神のごとき力を持つ者たちの、権力争いの話。 「俺たちライエの血こそ、真に獣の血を継承した一族なのに。俺たちを追い出しやがって。あいつら、あいつら」  しかしジュンはライエが悔しそうに唸り、舌でジュンを舐め、食むばかりでなんの話も入ってこなかった。心の中には守れなかった幼児の姿がありありと思い浮かび、涙が頬を流れる。それを、ライエは舐めとった。 「なんでしょう」 「俺の為に泣いてくれるか」  二人はいくら体を重ねようが心までは通わない。それは必然であった。  きっと獣の人だから、人の心まで理解できないのだ。この男は、自身の孤独や寂しさに敏感で、情けないほど臆病。命の尊さや、優しさ、未来のことなど、この男はきっと理解できない。  涙に濡れるライエを、ジュンは夜更けまで抱きしめた。  彼女の心は凪のように静かだった。  夜が深けてジュンがドラセナ姉さんの元へ行った時、やはりそこにはライエはおらず母だけが子を失った苦しみに耐えていた。  ニゲラはその傍で、そっと彼女の背中に触れることしか出来ない。
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