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不幸は、弱った人間の心に畳みかけてくる。
アルメリアが死んだ。流行病ではない、ジュンの子供が死んでから負の空気が蔓延するように、幼い妹は心を病んでいったのだ。
「ジュン姉さんに言わなきゃいけないことがあるの」
虚ろな顔で、力を失くしていく娘に十分な設備はなかった。己だけでなく周囲も死を悟りはじめ、地面に打ち伏す彼女の傍に居たのはジュンとドラセナ、ニゲラだけだった。
「静かに。体に障るよ」
窘めるドラセナに、アルメリアは虫の速度で顔を向ける。
「自分のことは、わかっているつもり」
「弱気なことを言わないでくれ。アルメリア姉さん」
元気づけるようにニゲラも言うが、アルメリアは乾いた笑みをするだけだった。静かな、諦めとも覚悟ともとれるその顔にニゲラの顔が引きつる。
ペンタスの時と重なる。仲の良い二人だったが、こんなところまで似なくてもいいじゃないか。
「二人きりに、お願い」
アルメリアが息も絶え絶えで言うので、ドラセナはニゲラの背中を押してその場を去って行った。
ジュンの手が、アルメリアの弱弱しい頭皮を撫でる。アルメリアの目尻に皺が寄った。
「なんだい」
ジュンが彼女の手を優しくとるが、アルメリアの目にはモヤがかかっている。
「ジュン姉さんの子供が死んだのは、ジュン姉さんのせいじゃない。私あの時、薬を入れたの」
途切れ途切れだが、アルメリアの口はしっかり動いていた。ジュンの脳内に、忘れたい過去として追いやったばらばらの稚児の姿がよぎる。
「なんの」
気づけば、ジュンの口が震えていた。
アルメリアは命を懸けて、大事な姉に重要なことを伝えようとしている。
「分からない。ティアさんに渡されて、必要な薬だと思って入れてしまった。私のせいで姉さんの子供が」
最後、アルメリアは後悔を口にしてやがて眼を閉じた。これ以上妹に苦行は強いられないと、なけなしの薬草を燻った薬を飲ませて寝させた。
非常に聞き逃せない話だ。ジュンは戦中も、敵の命を奪っている最中もそのことばかり頭にあった。明日聞けばいい、しかしどうやって。あれ以上の事実はないのだろう。
ライエの側近だったティアが寄越した、薬。
聞くことはなかった。いや、聞くことが出来なかった。
アルメリアは幼い体に苦悩を敷きつめ、次の朝には目覚めなくなったからだ。その日、ジュンはティアに話を聞こうと機会を伺っていたが、なにせ大戦に参加しているのでタイミングがない。しかし悠長に構えていられない出来事が起きたのだ。きっかけは奇妙なことだ。
世話になっていた産婆けん看護班の老婆も、アルメリアの死後に体調を悪くして七日も待たず心を病んで死んでしまったのだ。そして、亡くなったジュンの妹と同じように、死に際に言葉を残して死んだ。
「アルメリアが亡くなって、私も後悔したんだ。あれ、あの薬のせいであんたの子が死んだんじゃないかって」
ジュンは他にも、奇妙な事に気づき始めた。彼女にはもう生理が来ていなかった。閉経には若すぎる。子供のことは望んではいなかったが、まるで過去のことなどなかったかのように接してしてくるライエには怒りが沸いた。
「どんなお前も愛している。浮気などせん。俺にはお前だけだ」
反吐が出る。腹の底に冷たい泥が溜まっていくのが分かった。お前の歪んだ愛など、私には必要ないと言って首を掻っ切ってしまいたかった。
ジュンの胸中に疑念と確執が生まれ始めたころだった。
「逃げましょう。教会に」
大戦は夜に一旦休戦となり、夜が明けると再び戦が始まる。ある戦の終わりに、ドラセナがジュンたちに告げた。ニゲラはその話に賛同したものの、ジュンは違った。
「教会は私たちを匿ってくれるか」
最近ここの大陸に増設している、新しい宗教施設を総じて教会と言った。大戦中に増えた孤児や夫を亡くした未亡人が食料や温もりを求めてやってくるそうだ。その噂は面白話のようにジュンたちの耳にも届いている。
すべからく愛する、無限の神の愛。
ニゲラはどうか知らないが、ジュンはその愛とやらにはこりごりだった。
「姉弟で、仲良く暮らす話。覚えているかな」
懐疑的なジュンの視線も、ドラセナのその言葉に思わず柔らかくなるしかなかった。大昔のように感じるが、あれはペンタスのあの世への旅を見送った日のこと。
戦もない遠い世界で、のんびり仲良く暮らしたい。
そんなこと、まだこの人は信じていたんだ。
「わかった」
ジュンがそう言うと、決行は今日にでもということになった。
「あまりにも急すぎる」
とニゲラが言ったが、ジュンはそのほうが良いと思った。決行するなら、三人が揃って生きている時が良い。要は、戦場を離れて脱走するのだ。毎日のように脱走兵が現れてその場で処刑される中、騒動に紛れるしかない。
「行くぞ」
ジュンは毎夜共にしているライエのテントに行かず、そのまま馬を三頭盗んで夜闇に紛れて陣営を離れた。松明の明かりから逃れ、お粗末な柵をもろともせず離れていく。
「教会の場所は分かるの」
尋ねるジュンに、ドラセナは頷く。聞けば、馬を走らせていけば半刻もかからない場所にあるそうだ。三人は馬の背に乗り、ゆっくりと馬を歩かせる。
「教会の中までやってこないよな。流石に」
「分からないわ」
ニゲラの不安に、ドラセナは否定した。空気が凍るが、ジュンは覚悟をしていた。
「いざという時は、私が囮になるよ」
「それはやめて」
先頭を進んでいたドラセナが、厳しくジュンを窘めた。しっかり者で優しいドラセナの声に、ジュンの背がピンと伸びる。
「な、なんで急に」
振り返ったドラセナの顔に、ジュンの肩が跳ねる。
「もう、なにも犠牲にしないで」
私たちの為に、そう言われて思わずジュンは目頭が熱くなった。しかし、ドラセナの顔が強張り状況は変化する。彼女の目が捕らえたのは、ジュンとニゲラ以外の人間の存在だった。
「いたぞ!」
男の声に、ジュンとニゲラは振り返らず馬の腹を蹴った。それに続いてドラセナも馬の尻を叩き、速度を速める。風が三人の頬を殴った。
追っ手だ。静かに音を立てず離れても、やはり逃亡者に目を光らせていたのだろう。
考えながら、三頭の馬は坂を下っていく。幸い追っ手は一人だった。
風が吹きすさび、三人の体を荒く撫でる。暗闇にポツンと見えたその光に、三人の凍える心は燃え上がった。
あと少しで、狂った日常が安穏に戻るかもしれない。
「逃亡者め」
後ろで馬の走る音が聞こえる。ドラセナが先頭を突っ切り、ジュンの前にいたニゲラが速度を緩めた。思わずジュンは振り返った。弟が無事かどうか気になったのだ。馬がつかれたのだろうか、とジュンは甘く考えていた。だがなんと、彼は硬直していた。
手綱を握って、呆然としている。
「ニゲラ、何してる」
ジュンは叫んだ。ニゲラは恐怖で動けないのだろう。永らくライエに支配された名残が、今この土壇場で出るとは思いもしなかった。背後には猛速度で距離を詰める追っ手の姿が見える。
ドラセナも異変を感じ振り返るが、ジュンはニゲラだけを置いては行けないと思いドラセナに叫んだ。
「逃げるなドラセナ。卑怯な逃亡者よ」
この意味を、聡明な彼女ならわかってくれるはずだ。
血のつながらないきょうだいを支えてくれた、その幸せを影ながら望んだ健気な彼女なら分かる。ジュンの苦労をいつも案じていた彼女には、酷な決断だろうが。現実の厳しさを知るドラセナは、進むしかないのだ。
ドラセナは兄弟との別れを理解し、涙をこらえて教会に入っていった。
「どういうことだ」
教会に逃げ込んだドラセナを追おうとした追っ手の前に、ジュンは立ちはだかる。ジュンは努めて苛立った風に話した。
「大変申し訳ございません。身内から逃亡者をだしてしまい、どう申し開きしていいものか」
「奴は目と鼻の先だ。どけ」
押しのけて進もうとする追っ手の前を、ジュンはどかなかった。
「教会に押し入るんですか」
「もちろんだ」
「やめておいた方がよいでしょう」
「なんだと」
「仮にも神に身を捧げる者たちの住処です。どんな裁きが下るやら」
「見逃せというのか」
「大戦の均衡は、天候ひとつで変わるものですよ」
食って掛かっていた追っ手に、ニゲラが助け舟を出して忠告する。男の顔が闇の中でも分かる程曇っているのが分かった。
大雨や暴風はいくら貴族や神官、誰よりも強い戦士と言えども左右できない。天のみぞ知る、だ。そんな強大な力を前に、屈するしかない。
追っ手はドラセナを追いかけることは諦めたようだが、代わりにジュンとニゲラをきつく睨んだ。ニゲラは、神妙にするジュンを申し訳なさそうに見つめるしかない。
「頭領はそんなことでは許しはしない。俺も死ぬなら戦で死にたいもんだ。あの人に嬲り殺されるなんてまっぴらごめんだね。取り逃した罰は」
闇の中から、足音もなく現れる巨大な影。
「俺が決める」
ライエがのそのそと現れ、周囲に緊張が走った。しかし、戦での疲労により目に大きなクマが出来ている。それでも鋭い眼光は、ニゲラの真意を見抜くようにジロジロと見ていた。
「と、父さん」
ニゲラの情けない声に、ライエは鼻で笑った。そして、追っ手の男をチラと一瞥する。
「この戦争は長引く。今回は免責にしてやろう。行け」
追っ手はへえと会釈し、馬と共に足早に去って行った。
ニゲラもジュンと共に去ろうとするが、ライエは何も言わずジュンの馬に乗り込んだ。ジュンの背中に陣取り、手綱を握る手に自身のものを重ねる。
固まるニゲラにきつく睨みをきかせ、顎をクイと動かす。
「あ、あの、はい」
そのままニゲラはトボトボと追っ手の男の後に続いた。その最後尾を、ライエは馬の腹を軽く蹴って進ませる。
「取り逃がすとはお前らしくもない。姉だからと手心を加えたのか」
背中越しに聞こえるライエの声に、感情は読み取れなかった。そのことが余計に恐ろしく、今回の計画を見透かされないか恐怖する。
「ち、違います」
「なら、失態か」
自身の手に重ねられた大きな手に、圧倒的な力の差を感じた。この男にはついぞ勝てないのか、逃げられないのかと。
「はい。すみません」
疲労も溜まり狂気的な彼の瞳に、ジュンのつむじが映る。久しく感じていない柔い肌の温もりを思い出し、ライエは鼻先を後頭部に寄せた。
「姉のドラセナはなんて女だ。妹と弟を置いて一人だけ逃げるだなんて」
「いえ、そのような」
思わず反論してしまい、ジュンはしまったと後悔した。
「薄情な女だな。そうだろう」
そうだろう、は賛同以外求めていないということだ。この男にいると、思想すらも手綱を握られてしまい、こんなにも不自由だ。
「はい」
心からの言葉でもないのに、ライエは嬉しそうに笑う。
「お前が戦に出るのも、本来は心苦しいのだ。しばしの辛抱だぞ」
この男への怒りを、戦に向けられるだけジュンは有難かった。もし、戦から逃れてしまったらこの憤りをどうすればいい。
「命を粗末にするな」
父の声が聞こえた気がした。
父さん。私は多くの人を殺し、未だ貴方の教えに背いて生きています。もう貴方は私を見限っておいででしょう。
せめて、清らかなドラセナ姉さんだけは助けてやって下さい。
遠くで、梟の鳴く声がした。
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