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その日の夜、クシー改めジュンの居留守に勘づいたのはライエの部下だった。
「逃亡か」
「いえ、娼館に向かいました。例の、口裂け女の」
ライエは顎に手を当てて思案するが、唐突に部下を殴りつけた。
「何故捕まえなかった」
「申し訳ございません。逃亡の意思は無かったので」
「お前の判断が間違っていたら、お前の首が朝並んでいるぞ」
側近が唾を飲むと、遠くからジュンが駆け足で戻ってきた。ライエが気づいたことを察知し、すぐ様膝を折って頭を下げる。
「大変申し訳ございません」
「なぜ無断で山を降りた。殺されても文句はあるまい。まずはお前の兄弟から始末してやろうか」
「何でも致します」
口をついて出た言葉にハッとして、ジュンが口を抑えた。わざとらしいと言えばそう見えるが、恥じらうその様にライエは満足そうに顎を掴んだ。
「ほお、殊勝な心掛けだ。随分心配したんだぞ、その分の労いは期待していいな」
側近は卑しい非人の頭領に吐き気を覚えた。幼い子供に目をつけて舐るような扱い、見るに余る。しかし、ジュンの日に日に逞しく美しくなっていく様もまた目が離せなかった。
「喜んでお受け致します。その前に、泥を湖で落としてもいいでしょうか」
「何を期待している。可愛がって欲しいのか」
ジュンは恥じらいながらも手を伸ばしてくるライエの手を制し、タッと走り去っていった。側近は頭領の機嫌が治ったことに安堵し、その場を後にした。
「変態め。碌な死に方はしないだろう」
ライエは側近にそんなことを言われているとは知らず、湖の畔で体を洗うジュンを眺めていた。灰色の瞳が月明かりに輝くと、その目玉を涙でいっぱいにしてやりたくなる。ジュンは振り向き、視線がかち合うと再び俯いた。
「俺の妻らしくなったか」
悠長なライエだが、ジュンは娼館で言われた言葉を反芻している最中だった。
「あの男はとにかくねちっこくていじめたがりなんだよ。自分の言動や行為に反応されると、餓鬼のように喜ぶ。男は振り回されるしかないが、女は機嫌が取りやすい。恥じらう振り、過剰な喜び、多少演技がかってもいいさ。そうすれば優しくなる。ムカつくけど」
ジュンは体を洗い終わり、自分の服を取りに戻った。するとライエが衣服を嗅いでいたので、嫌な気持ちを抑えつつジュンは傍に寄る。
「汗臭いですよ。その服も洗いますから、返して下さい」
「駄目だ。確かに血と泥の匂いがする。最近はよく敵を殺しているな、返り血か。人殺しは慣れたか」
嫌味な言い方は相手を翻弄したい時、支配したい時だ。それを逆手に取れ、と耳の後ろでアガパンサスが言ってくれている気がした。
「人殺しなんて、本当はしたくありません」
「獣を殺すのと同じだ。なあ、いくら水で洗ってもその薄汚れた手は俺と同じになってしまったな」
「意地悪は辞めてください」
ライエは悲痛に歪むジュンの顔を丹念に見遣り、月明かりによく照らされるよう彼女を引き寄せた。
申し訳程度に身を捩って鳴くジュンを、ライエは膝の上に乗せる。
「娼館に行っていたそうだな。男の悦ばせ方でも学んできたか」
「貴方の事を聞きに行ったんです」
ライエは苛立たし気に唸った。彼のことを聞きに行ったと言われれば喜ぶと思ったが誤算だったようだ。獣のように唸っては、自身の感情の高ぶりを抑えようとしても足のゆすりが止まらない。
「あいつらは俺の文句ばかり言っていただろう。ガサツだとか粗いだとか、お前もその井戸端会議に混じったのかい」
「はあ」
父を亡くしてから長い間、ライエの傭兵団で身を尽くして入る。しかし、彼といるとどうにも心がざわついて安穏としていられないのだ。湖畔に浮かぶ月を見ていると、思わずため息が出てしまうほどだ。
おどおどとしているジュンにしびれを切らし、ライエは無理やり顎を掴んで口吻を強いた。突然の行為に、ジュンは喉から息が漏れる。
ジュンは彼に応えるどころではない。思わずライエの頭を掴んでしまうが、アガパンサスの言葉を思い出して思いとどまる。ここは外だぞ。ジュンは羞恥に耐え、いまだに慣れぬ刺激を堪えてライエの頭を撫でた。見たことのない母は参考にできないので、ドラセナ姉さんやアガパンサスをイメージして、優しく。
「なんのつもりだ」
口を離して、ライエが問う。
「お気に召しませんでしたか」
口を放し、向かい合うようにライエは抱き寄せるが、ライエの瞳には底知れない薄暗い感情が見えた。本気で怒った時のような緊迫感に押される。
「俺に母はいない。やめろ、虫唾が走る。お前にだって母親はいなかったろう」
「いません」
「父親はいたがな。はは」
嫌味な言葉に、ジュンの頬がヒクリと震える。よくもそんな無神経なことを言えたものだ。
背後に回したライエの手が産毛を逆立てるようにサワサワと触れてくる。ジュンはむず痒い刺激に背中を反らした。そして、ライエの太い指が尻の肉をギッと鷲掴むと、痛みが全身を疾る。
「ぎゃっ」
年上の夫の目がギラリとジュンを睨む。
「お前は余計なことは考えず、俺のために生きていけばいい。他の者の戯言など鵜呑みにせず、俺の命にだけ従え。戦い、交わり、そして死ね」
「貴方の為に生きますから」
従順な幼妻を前に、ライエはニヤけて顔を寄せた。
「俺には素直に従えと、誰かに言われたか」
心臓が重く跳ねるのすら、ライエにはお見通しただとばかりの言い草だった。
「え、あの」
「それは半分合っている。恐らくアガパンサスあたりだろ。あの口裂け女め。それこそ、そっくり信じるな。俺はな、お前の中にある反骨の魂を穢し、貶め、従わせることが楽しくて仕方ないのだ」
意地が悪い、その意味をようやく骨身に染みる思いで感じ取った。性格が捻じ曲がっているなんてものではない。性根が腐っている。その腐乱が精神を病み、彼の魂すらもどす黒くさせているのだ。なにが彼をそこまでさせるのか、ジュンは何故か笑んでしまった。
「失礼」
「なにがおかしい」
「貴方が、可愛らしくって」
なにがあったかは知らないが、幼い子供を妻に娶って夜な夜な好き放題するような男だ。部下に当たり散らし、敵をどれだけ殺そうが彼の心は満たされない。大きな体に見合わない小さな心、こんな男に怯えていたのかと。
「茂みに隠れているやつ、でてこい」
ライエが吠えると、茂みから弓矢を持ったニゲラが恐る恐る出てきた。ジュンが駆け寄ろうとするが、ライエの腕が離さない。ニゲラは青ざめた顔で立ち尽くしていたので、ジュンが何事もなかったように微笑んだ。
「どうしたんだい」
「お、俺、ようやく遠くからでも的を射れるようになって」
裸の姉とそれを抱く大男。先ほどの悪戯もきっと見ていただろう。幼いニゲラは震えるばかりで言葉が出ない。
「良かったね。もう寝なさい」
ライエの腕がきつく巻き付いても、ジュンは笑みを絶やさなかった。ライエはもういいだろうと彼女を抱え、ニゲラを睨むと少年は震え上がった。獣のような双眸と大きな口。
「毎晩俺たちの情事を覗いているのはお前かい」
小声でポツリとライエが言うと、ニゲラは顔を赤くして俯く。何も知らぬジュンを抱え、ライエは野営したテントにジュンを下ろした。薄暗闇の中を照らすのは月明かり、そしてギラつく瞳。
ライエはジュンの体に彼女の服をかけ、立ち上がって怯えるニゲラに近づいた。
「と、頭領」
細いニゲラの喉から声が漏れる。一歩後ずさった。
「逃げるな。叱られてえのか」
大きな手が、ニゲラに伸ばされる。しかし、少年の頭を潰すことはなかった。彼の足を掴む、女の細い指先がそれを止めた。
「明日、見てあげるよ」
何事もないかのように、ジュンがニゲラに告げる。
夜でも分かる程、真っ青だったニゲラの顔から多少の生気が戻った。
「えっ」
「明日見てやるから、お行き」
ここは大丈夫だからとは、とまでは言わない。そんなことを口にしてしまったが最後、今にも怒りで人を殺してしまいそうなライエに何をされるかわかったものではない。
冷酷な頭領の静かな怒りに火が点く前に、ニゲラは姉に背を向けて走り去っていった。彼に非はない。運が悪かっただけだ。
ニゲラの足音が消えた後、ライエは掴まれていた足を力任せに払った。そして、野犬のような恐ろしい双眸でじっとジュンを睨みつける。剣山を思わせる眉間が盛り上がり、怯えるジュンの顎を掴んで上向かせた。
何故、こんなにも不自由なのだろう。戦士として力をつけ始めても、この男を前にすると無力な少女だったころを思い出してしまう。
ジュンの頬を、涙が静かに伝った。
「苦しいか」
「そんなことは」
ジュンの喉は頼りなく、戦場で雄々しく吠える姿からは想像もできないか弱い声しか出ない。
この女は俺の手中だ。そうライエが確信すると、彼の口は鬼のように裂けた。こぼれる涙を、ざらついた舌で掬う。
「俺の前で嘘は通じん。可哀そうに。お前が泣くと俺も辛い」
心にもない事を、そう思いながら睨んでもライエは満足そうに笑うだけだった。
「共に地獄へ行こう。無間地獄の鬼の前でもお前を可愛がってやる」
「許して」
「ならない。お前は永遠に俺の番だ。お前の中も俺を離さないぞ。おっ、締まる」
「違うっ」
そう言い切ってしまうと、堰を切って両の目から涙が零れ落ちる。こんな弱い姿、誰にも見せたくもなかったのに。寄りにもよってこの男の前でしてしまうなんて。
ライエは服に包まれたジュンを腕の中に抱え、愉快だと声高に笑った。
「はは、もっと抵抗しろ。その様が見たい。どうせ俺からは逃れられぬ。誰も助けに来ない。俺以外はな」
ジュンは深い奈落へ落とされ、再び這い上がってこれぬよう小賢しい山犬はその手を強く握り、落とした。
明日の朝、ニゲラの弓の練習には彼女は来なかった。幼い少年は、朝日の中で遠くの的をじっと見ることしかできない。
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