喪失

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「どうして」  ジュンはそう言うしかない。老婆は嬉しそうにまだ膨らみもしていない腹を撫でた。  「めでたいこと、めでたいこと」  ジュンも最初は戸惑っていたが、産婆の強い勧めで戦から一時離脱を言い渡された。ジュンも老齢の女性から労られ、平穏な時間が流れることに甘えていった。その反面、戦力を削がれたライエ傭兵団は苦戦を強いられる。 「おい、ジュンはどうした」  同盟のリーダーから詰られ、ライエは懐妊していることを告げると、リーダーは感心したが、自身の置かれた状況に苦言を呈した。 「俺たちだけで十分だ。戦力の補充もした、問題は無い」 「いや、いや。仲間内で喧嘩をするのはやめよう。良い報せだ、お前も遂に父親か。子供なんぞ戦争家業を続けて居たら早々授かるものでは無い。戦が終わったら、やや子の顔を見せてくれよ」  ライエには心配事があった。ジュンの孕んだ子供のことだ。非人が何故そう呼ばれるか、それは子供が健常に生まれてこない事が原因だった。もし足でまといが産まれたら、ライエは我が子にすらそんな感情を抱いた。  有り得もしないのに、俺の子かどうかすらも不安になった。昔、ジュンが他の傭兵団にスカウトされた時だ、その団にいた歳の近い男と仲良くなった。ライエは凄まじい嫉妬を覚え、その男の首塚の前でジュンを犯したこともある。  この男は偏った思考と、頑固な頭、一度囚われた不安を拭えないほどの猜疑心の強さに、手が付けられないのだ。なのに力は人一倍もあり、小狡いので逆らえない。しかし、その日は少し違った。 「俺にジュンの腹の子を殺せと言うのか」  ライエの側近が声を荒らげると、彼は顔を顰めた。面倒くさそうに鼻の頭をかく。 「そうだ。それ、鬼灯の粉だ。それを水に混ぜて飲ませれば堕胎するだろう」 「馬鹿言うんじゃねえ。やるんならてめえでやってみろ、やれるもんならな」  夜のテントの中での密会だったが、ティアは声を荒らげずにはいられない。ただでさえ戦争で疲弊しているのに、更に仲間の子を殺せと。横暴にも程がある。  ティアは、冷徹だが変に人情味の残る男だ。少年兵を殺すことにすら躊躇いを感じるような、少し異色の男だった。 「誰にものを言っている」  ライエのするどい眼光すら、今のティアには苦痛ではない。 「あんたには散々尽くしてきたが、限界だ。何を考えている。自分の産まれてくる子だぞ、それを堕ろすことがどういうことか。母親だって命の危険が伴う」 「承知の上だ」 「てめえの承知なんざ聞いちゃいねえんだよ」  ライエは堪らずティアの頬を殴ろうとしたが、彼も負けじと反抗する。その目付きに、ライエは目を見開いて睨んだ。 「裏切るのか。そうか、お前の子をジュンは宿しているのか」 「あんた何言ってんだ」 「でなけりゃそこまで反抗するのはおかしいだろう。図星か」 「腹の子が可哀想だって言ってんだよ、このわからず屋」  乱闘がしばし行われたが、ライエが強気に攻め込むと、すぐに足蹴りが腹に入りティアは呻いた。その後仲間が様子を見に来て止めに入っても、ライエは血眼になって腹を蹴り続けた。 「頭領、おやめ下さい」  仲間に抑えられ、蹲るティアの足元に粉薬を挟んだ紙を投げつけられた。 「この団にいたいなら証明しろ。身の潔白をな。でなけりゃ追放だ」  ティアは粉薬を掴んで子供たちがいるであろう場所に行った。足取りは重い。看護班の年寄りに笑顔を向けられると、罪悪感で吐き気がする。ティアはジュンに運ぶ水の器の横に粉薬を入れようとして、躊躇った。  あの男のせいで失われる命は、戦で十分だ。ジュンにだって幸せを手に入れる権利がある。あの男は怖いのだ。ジュンといずれ生まれる命の間に自分が必要なくなるのではないか、そんな一抹の不安を肥大化させて苦しむ道化。 「ティアさん、どうかされましたか」  アルメリアがあどけないかおで尋ねてくるので、ティアは無理に笑顔を作った。 「何も。遅くまで支度ご苦労さま。そうだ、これを捨てておいてくれ」  粉薬の袋を見てアルメリアが戸惑うが、ティアはすぐにでも立ち去りたかったのか足早に去っていった。 「薬なんか捨てていいのかな。高価でしょう」  アルメリアが粉袋を見ようとしたが、ふと通りがかりの老婆にいなされる。 「こら、そんな高価なもの捨てちゃ駄目だろう。何考えてんだい」 「でも、ティアさんが」 「ああ。なら朝あの人、体調の悪いジュンに薬も持っていくって言っていたから、多分それさ。水に混ぜといてくれよ」  それは本当の話だった。本来なら良薬を渡すはずが、いまアルメリアの手にあるのは毒薬だ。それを彼女たちは判別できない。悲しいことに。  アルメリアはそう言われると断れず、さらりと粉を水に混ぜてジュンの元に運んだ。青白い顔のジュンの腹はまだ膨れていないが、そこに命が宿っていると思うと感慨深い。 「ジュン姉さん。ほら、ティアさんが体調の良くなる薬を持ってきてくれたよ」 「え、それなら夕方に貰ったけど」 「そうなの、あれ」  アルメリアが首を傾げるが、ジュンは礼を言ってその水を口に含んだ。喉を潤す感覚に微かに気分を良くする。 「ティアさんは優しいね」 「私、あの人のお嫁さんにならなってみたいかも」 「はは」  笑い声は元気に響くが、その日だけのことだった。
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