そうず河

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もう歩けない、ずいぶん遠くまで来ちゃったみたいだけど、ここはどこだろう。あぁ、大きな川が流れてる、どうやって渡ればいいのかな。…草のいい香り。もういいや、歩くのはここでやめよう。 その場に座り込んで、見上げると、大きな月が泳いでいた。クレーターまで、はっきり見えるほど輝いている。 豊の海、晴れの海、静かの海、雨の海、雲の海、緑の海… グレーで塗りつぶされたような海も、今日はレモネードを満たしたような色をしている。 熱の大陸、雪の大陸、肥沃の大陸、愉快の大陸、マナ大陸… それぞれの大陸の複雑な地形が陰影を作っている。 夏の湖、秋の湖、悲しみの湖、喜びの湖、忘却の湖… 「忘れないように名前を付けたんだと思うけど『忘却の湖』かぁ~」 愛の入江、虹の入江、月の入江… 「月にある入江に、なんで『月の入江』って名前を付けたのかなぁ?」 ぼんやりと、古人のネーミングセンスに思いを馳せていた。 顔に当たり続ける月の明かりは、ほのかに温かみが感じられた。 すると、月の西からティコ・クレーターくらいの小さな黒い丸い物体が、ゆっくりと、でも遅くないスピードで動いているのが見えた。 「なんだろう?人工衛星?」 人工衛星にしては大きすぎるし、小惑星にしては動きが速すぎる。 「あれはね、地球の影なんだ」 不意に後ろから声がした。ドキリとしたが、不思議と怖くはなかった。そこにいるのが当たり前であるかのように、声の主の気配を感じていた。 「そうなんだぁ…」 月を見上げたままこたえた。声の主が、右斜め後ろに座った。 「キミはここで何してるの?」 「月を見ていた」 「それから?」 「それだけ」 「どこから来たの?」 「わからない」 「これから、どうするの?」 「わからない、疲れすぎて動けない」 声の主が、こちらを覗き込んだ。長く垂れた前髪の一房が銀色に輝いて、丸い顔の輪郭を縁取っていた。それ以外の髪は、後ろで束ねられてフワフワとそよいでいる。 「送っていこうか?」 「どこへ?」 「キミが帰る場所まで」 「でも、道がわからない」 声の主が立ち上がると、全身が視界に入った。月を背にした声の主は、切り取られた闇のように見えた。先ほど隣にあった顔は、高い背の遥か上についていた。銀色の前髪が三日月のように浮かびあがっている。足元まで覆い隠すガウンのような黒服は、月の明かり受けて虹のような光沢を放っている。 「大丈夫だよ、僕の背中に乗っていけるよ」 声の主がしゃがんで背を向けると、柔らかな髪の毛が頬に触れた。穏やかな闇の空気をまとい、かすかに沈香が薫っている。それでなのか、何のためらいもなく安心でき、何の抵抗もなく導かれるように背中に掴まって、細い首筋の柔らかい髪に顔をうずめた。すると、声の主は静かに立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。 「川がある、どうするの?」 「心配しないで」 声の主が進んでいくと、川は凍りついたように静かに止まった。そして、川面を滑るように渡っていった。 「どこまで行くの?」 「キミの家まで行くよ」 対岸に着くと、見覚えのある街並みになった。駅前のロータリー、線路沿いの一方通行道路、ごちゃごちゃとした商店街、跨線橋、しんと静まり返った住宅街… 「どこから来たの?」 「あの地球の影から来たんだ」 「また会える?」 「うん、地球の影が月の前を通るのを、キミが見たらね」 いつの間にか自分の家の前についていた。背中から離れて、玄関の方へ一歩踏み出した。 「ありがとう」 振り返って言ったが、地球の影から来た人の姿はなかった。
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