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記憶を持っていなくても、彼の姿を見て、話を聞いている中で急速にこみ上げてきた。この感情は確かな歓喜に満ちていて、この状況でそう感じるということは、僕にとって彼はとても大切な人だったんだろうと。
「しかし……それではあなたは、彼女のことが思い出せないままになってしまう……」
彼女。その言葉を聞いて、心がざわついた。でもそれは嫌な感覚ではなくて、穏やかな波打ち際の潮騒のようだった。
「千年も離れていたその人に、今になって僕が『会いたい』と願ってしまったら、今を生きる彼女の自由を妨げてしまいそうな気がする。彼女が笑って、幸せに生きていける世界をこのまま続けていきたい。それこそが、僕にとって何よりの望みだと思うんだ」
記憶が空っぽなせいなのか、なんだか逆に朗らかで、気分が良かった。目の前に広がる、誰の足跡もついていない新雪のように。
せっかくなので一緒に歩かないかと誘ったら、引け目がちな眼差しながら、彼は小さく頷いた。
「そういえば、僕と君の名前はなんていうんだろう」
「あなたの名前はソウジュ。俺は……恥ずかしながら、この千年、あなたの名を借りていたから。もはや名乗れるものがない……」
「僕の名前を? なんだってそんなことを?」
彼はそもそも僕との再会を想定していなかったようだし、僕本人にその説明をしなければならないなんて考えてもみなかっただろう。ちょっとだけ恥じ入るように、目を泳がせながら、語る。
「あなたはこの星にとって何より大事な存在だったから、何もかもを失わせたくはなかったし……俺は、あなたのようになりたかった。いつだって、自分よりも他の命を優先して考えられる、強い心を持っていたから……」
「そうなのかい……? なんだか過大評価な気がするけどなぁ」
あなたに自覚がないのは自分のせいなのだけど、と前置きしながら、彼はちょっとだけ笑った。
「名乗れるものがないというのなら、新しく考えないといけないね」
「自分で自分に名付けるなんて、難しいな……」
「僕がつけてあげられたら良かったけど、残念ながら僕はまだ名付けられるほど君の情報を持っていないからね……」
「……だったら、『サーラ』にしようかな」
「じゃあ、これからの君はサーラだね」
「うん……」
それから僕達は、終わりのわからないこの白い世界で、あてもなく過ごした。僕の記憶は未だにサーラの中にあるのだけど、感情が僕に教えてくれた。
冷たい雪に包まれた世界でも、誰かと一緒に歩けるなら、足に触れる雪は冷たくない。雪にさえ、温もりを感じられる。遥か昔の僕はきっと、そう感じていたはずだって。
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