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その方は辞退させて頂けませんでしょうか
味も香りも申し分ないお茶だ。
これが毎日飲めるなら、余生の慰めになるな、と鼻腔に残った芳香を胸いっぱいに吸い込む。
しばらくして、ウィフと名乗った使用人が、当主が参りましたと告げた。
髭を生やした紳士が杖をつき、若い男に支えられながら客間に入ってくる。
大事な場面だ。ここで印象を悪くしては元も子もなくなる。
出迎えるため裾を直して立ち上がる。
「あなたが、シュロからいらっしゃった娘さんですね?」
当主のトムズは互いに自己紹介が済むと、黒い革張りの肘掛椅子にゆっくりと腰掛けた。
柔和な笑顔を浮かべ、品よく蓄えられた髭をなでつけている。
流石に大きな商家を取り仕切るだけあって、表情は柔らかでも、感情は見えない。
私はそそくさと腰を折り、謝罪の姿勢をとった。
「まずは、祖父の代で約束を違えましたこと、重ね重ねお詫びいたします」
「そう畏まらずに、頭をあげてください。契約は反故になってはおりません。結婚の意志のある子女がおれば、というのが、書面にあります。準備金の事を差しているのなら、なおのこと。蒔いた種の収穫が少し遅れただけにすぎません。借用書通りの返済も続いておりますし、詫びられることなど何もありますまい。しかし……」
語尾を濁され不安で胸が絞られる。
契約書通りにならなければ、全てが水の泡だ。
「何か問題があるのでしょうか? 私がこちらに嫁ぐことで、残りの返済分をご都合いただけるという契約に障りますか?」
「いえ、そちらは一切問題ありません。あなたがこちらに来ていただけるという確約があれば、すぐにでも借用書を破棄致しましょう」
「では、なにが?」
「――この契約書が作られてから、かなりの年数が経ちました。人が生まれ、成人するほどの年月が……」
何かに思いを馳せるような眩しいものを見る目をして、トムズは琥珀色のお茶を一口啜った。
「あなたに嫁いでいただくつもりであった者は、今や別の者との家庭がある身。あなたも誓約書どおりと思い、覚悟なさって来ていただいたのでしょうが、なんともはや」
「そ、それでは、私は……?」
結婚する相手もいないのに、借金を帳消しに出来るとは思えない。
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