契約書

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 マルスに嫁ぐ方がいいと泣くのだ。  マルスに身を任せれば、大切なものがすべてがなくなるのだと説明しても、父にはピンとこない。親切を装う商人ほど恐ろしいものはないのに。  契約書を隅から隅まで、覚えるほどに読み込む。  本来は、叔母のどちらかが嫁ぐことで借金は消える契約だったらしい。  結婚してその後、駆け落ちの如く消息を絶った上の叔母。  下の叔母は、金を使い果たした挙句、嵐の夜に家出をしたままどこにいるのかも分からないという。  気の弱い父と、体の弱い母にすべて押し付けて、準備金まで使い切って、さらにこの家の金も使いこんで逃げたのだ。  借金だけでなく、店を立て直すのにしばらくかかり、母は病を患った。  飢饉を救った祖父に文句をいうつもりは無いが、無責任に家を出た叔母たちの事は苦々しく思う。  可愛い双子の妹たちは、まだ誓約書の存在を知らない。私も知らせるつもりはない。  父はべそべそと泣いたが、私は震えるほどに神に感謝した。    ――全てが解決する。    借金が消えたら、私の憂いはほどんど消える。  商売の才はないけれど、そこそこに真面目な父は、借金さえ無ければ平均以上の生活を妹たちにさせられる稼ぎがあるだろう。  学校経営にまわす資金をどこから持ってくるかなど、考えなくて済む。  王が代わってからは、明らかな不作の年には国から補助金が出るようになったので、凶作に怯えることもない。    そう、借金さえなければ。    父に、妹たちを確実に学校に行かせ、悪い輩の手の届かない所で仕事をさせる約束さえ取り付ければ、私の役目は終わる。  これは自己犠牲でも何でもない。自分の心の自由のために借金をおわらせたいのだ。    父は頑なだった。  父に承諾の手紙を書くように催促したが、もう少し頑張らせてくれと譲らない。  もう充分頑張っているし、それが劇的に変わらないことを知らないはずもないだろうに。  私としては異国に嫁に行った姉という肩書きのほうが、妹たちの目に触れない分、死んだ言い訳をしやすい。  妹たちには「異国で流行り病にかかって、短いけれど幸せな結婚生活を終えた」と伝わればいい。  埒があかないので、置き手紙を父と妹たちに遺し、誓約書を携え、夜明けとともに国境に向かう馬車に乗ったのは、もう二日前のこと。
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