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【八神くんと名塚くんの雨の日の話】
「例えば台風クラスの雨が降り続けたら、河川が氾濫して街が浸水する。そうなると都市機能が麻痺して、俺たちの生活は一瞬で立ち行かなくなる」
「………えっ?」
それを聞いた名塚真は息を呑み、窓の外から隣へと視線を移す。
名塚に視線を向けられた八神徹は、今なお外で降り続ける雨のような単調さで続けた。
「土砂災害等の自然災害も起こるだろうな。生態系にも大きな影響を及ぼす。動植物がまともに育たなければ食糧難になることは想像に難くない」
「ちょ、待った。徹くん、タイムをください」
「そもそも日光がなければ植物は光合成ができないんだから、つまりは酸素も減る。ここまで来ると絶望的に思えるな、いろいろ」
「わかった。もうわかったからよ、徹」
「昔、なにかの映画であっただろう? 大雨を降らせ続けて地上の建物や文明を全て洗い流してしまおうという。まあそれはさすがに荒唐無稽かもしれないが、それだけ雨や水は恐ろしいという話で」
「もういいって! わかったよ、もう既に恐ろしいよ!」
そこでようやく八神が一息ついた。
「あくまで推測の話だ」
「いや徹が言うとほんとっぽいからさぁ……なんだってそんな話すんだよ、怖ぇわ」
「おまえが『雨が降り続けたらどうなるのか』なんて聞いてくるからだろ」
「おれがそんなクソ真面目に尋ねると思うか?」
軽く苦笑を浮かべ、名塚はソファの背もたれに寄りかかる。「相変わらず夢というか、情緒がねえなぁ徹くんは」
「語彙力ゼロのおまえからそんなことを言われるとはな」
小さく息を吐いて、八神も背を預ける。二人分の重さを受けてソファーが軽く軋んだ。
二人が黙ると、室内の音は雨だけのそれになる。
「……………。情緒と言うなら」
窓の外に目を向けたまま、ふと八神が口を開いた。「和歌では、雨は恋について詠むものが多かったそうだぞ」
「和歌?」名塚が目を瞬く。
「平安時代……いやもっと昔か? それくらい前の時代に詠まれた歌だ」
「詩みたいなもん?」
「まあ、ルールのある詩みたいなものだな」
「へえーそうなんだ。おまえ理系のくせによく知ってんなあ、徹」
「中学の頃、おまえも習ってるはずだがな」
「で、なんでその和歌では雨イコール恋なんだ?」
「昔は雨が降ると想い人と会えない日が続いた。だから会えない恋しさや切なさを歌に乗せて、文として送った。それが和歌だ」
「? 雨が降ると会えないって?」
「昔は道も舗装されてなかったし、今みたいに電気もないから夜は暗いし視界も悪い。道中何が起こるかもわからない。当然電車や車もない。牛車っていう、まあ人力車みたいな移動手段はあったが、そいつはめっぽう雨に弱い。要するに雨の日の移動はとてつもなく困難だった、ということだな」
「……なるほど」
「やっぱり今と違って男女が気軽に会える時代でもなかった。やっと会える、と思ってた日が雨だったら……天候はどうにもならないこととはいえ」
「寂しい……よな、それは……」
力ない呟きが、小雨のように落ちる。
感受性の強い名塚は先の時代の誰かに思いを馳せているのかもしれない、と八神は思う。
誰かを思って泣ける、こいつらしいな、とも。
「でも、悲しいことばかりでもない」
名塚が、視線を窓の外から八神へと戻す。
「そこでしかない出会いもあった、らしいぞ」
「それって?」
「突然の雨で、雨宿りのために立ち寄った場所で偶然出会った二人が深い仲になる、そういったことだな。雨が降らなければ出会うこともなかった」
「はあーーー、なるほどなあ」
「そう考えると雨も悪いことばかりではないというか、粋な計らいと言えるのかもしれないな」
「今日の、……おれみたいな?」小首を傾げ、名塚がいたずらっぽく笑う。
子供のように無邪気に振舞っていたかと思えば、どこの誰かもわからない人物の悲しみに心を痛め、そして今は誘うような視線をこちらに向けている。
「……そうかもしれないな」
つくづく、自由な奴だ。
心の中で八神はそう付け足した。
制服のシャツを第二ボタンまで外して、おもむろに名塚に覆い被さる。ソファがぎしりと音を立て、名塚が八神の首に腕を回す。
視線を交わし、互いの唇が触れるか触れないかの、すんでのところ。
「あ、雨止んでる」
唐突に名塚が言った。「ほら、徹。見てみろよ窓の外」
言われて八神は視線を窓の外に移す。なるほど、確かに雨は止んでいた。
「な?」
「確かに止んでるな」
「天気って気まぐれっつーか自由なのな」
「天気もおまえにだけは言われたくないだろうな。このタイミングでその話題をぶち込むか? 普通」
「だって見えちまったんだもん」
「情緒がどうのとよく俺に言えたもんだ」
「これさあ、おれ雨宿りって名目で徹んち来てるけど、雨が止んでもいていいんかな?」
尋ねながら、名塚は笑っている。
本当に、こいつは。
「…………。野暮なこと、聞くな」
笑みを象る名塚の唇に、八神は自分のそれを重ねた。
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