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6-2 お迎え
守衛に入館許可をもらい、練習室の場所を聞いた。リハーサルは約30分で終わるとのことだが多少時間は前後するだろう。
練習室が近づくにつれ、聞き覚えのある曲がだんだん聞こえてきた。
クラシックに特別詳しいわけではないがこの曲は知っている。格調高くドラマチックで彩音に似合いそうだ。
練習室の前にベンチがあったが、他の学生が出てきたら不信に思われそうなので少し離れた場所から彩音を待っていた。
すると彼女が一人で出てきたので歩み寄って声をかけた。
「彩音、お疲れ様」
「兄様?どうしてここに」
「迎えにきたよ。守衛さんに許可もらってるから」
「遅くなるかもって言ったのに」
「うん。でも来たかったんだ。行こうか」
「東雲さん」
と後ろから声がした。
森野氏唯一の弟子、板倉亮司本人が出てきた。彩音が振り返る。
板倉がにこやかに彩音に話しかける。
「よかった、まだ帰ってなくて。東雲さん、お久しぶりです」
「え」
「なんてね。師匠のコンサートの時東雲さんが楽屋に訪ねて来たのを後ろで見てたんだ。僕の顔は見てないと思うよ」
「そうでしたか。あの場にいらっしゃったのですね。コンサート、本当に素晴らしかったです」
彼女は完璧な東雲の令嬢として対応している。今日は社交の場でもないのに。
「今年も開催されますよ。実は師匠が推薦してくれて僕が振るんです」
「確かS響ですよね?すごい」
「ええ。良かったら聴きに来てください。ご招待します。そちらの方も一緒に」
板倉は俺に視線を移した。
彩音が俺を紹介する。
「板倉さん紹介遅れました、こちら兄の光瑠です」
「妹がお世話になっております」
俺はつとめてにこやかに挨拶する。
「確か東雲建設の常務さんでしたよね。板倉と申します」
俺の役職まで知っているのか。
「知って下さり光栄です。コンサートは来月ですよね」
「ええ。お忙しいでしょうがご都合が合えば是非」
「時間が合えば妹と二人で伺います。でも招待は結構です。自分達でチケット用意しますから。他の誰かをお誘いしてあげて下さい」
誘う女は他にいくらでもいるだろうと心の中で付け足した。
板倉はふっと目を細める。
「そうですか。じゃあ東雲さん、また来週ね」
「はい。リハーサル頑張ってください」
「ありがとう」
含みのある笑顔を彼女に向ける。
「じゃあ彩音、行こうか」
板倉をその場に残し彼女の手を引っ張ってその場を去る。
運転しながら苛立ちを抑えきれない。
気になってネットで経歴を調べ、伝手を使って彼の評判を聞いてみたら実力はあるが日本でも海外でも楽団の美女ばかり狙うという噂があるらしい。
さっきもわざわざ練習室から出て彩音と二人で話そうと追ってきたのだ。迎えに来た俺の勘は正しかった。
なるべく平静を装って彼女に問いかける。
「本番まであと何回くらいリハーサルあるの」
声に出してみると想定より言い方がきつかったかもしれない。
「えっと、月曜日と木曜日と前日の通しリハーサルの3回ですね」
「指揮者の彼は来るの」
「え、木曜と前日はいらっしゃるようですけど」
「そう。その日は迎えに行くから」
「えっ平日ですよ?ただでさえ私に時間を割いてもらっているのに。お仕事大丈夫なんですか」
「平気だよ。それくらい」
彩音を困らせていると分かっているのにあの男の余裕ぶっている顔がチラついて離れず意地を張ってしまう。
「ダメです。周りの方にもご迷惑がかかります」
「そうならないようにする」
「ちゃんと一人で帰りますから。秘書さん困らせないで下さい」
彼女になだめられているうちに、今日一緒に食事をする予定の寿司屋に着いた。
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