12-3 記憶

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12-3 記憶

「あの頃、この家は光が無かったような気がする」    遠い昔の、霧のような記憶。改めて掴もうとしても掴めず、あれは本当にあった出来事だったのかあやふやになる。  しかし向き合う覚悟を決めた今、霧が晴れてある光景がだんだん浮かび上がってきた。    遠ざかる父の背中、私の手を握る母の冷たい手。 「やっぱりお父さんといる」  私は母の手を離して父を追いかけた。父は困った顔をしながら私の頭を撫でてくれた。  あの時母はどんな顔をしていただろう。  彼は私の手を握り、静かに耳を傾けてくれる。  彼の手は温かくて、あの時の母の手の冷たさが際立って思い出され、心が締め付けられた。 「小さいころはずっと習い事をして、ほとんど父と会うことがなくて同じ家に住んでると思えなかった。遊びに連れて行って欲しいなんて思ったこともない。世の中の父親を知らなかったから」 「うん」    うまく言葉が出てこない。それでも彼は聞いてくれる。 「母は習い事をしている間ずっと見守ってくれた。でも笑顔はなかった。褒めてくれた時もなんだか悲しそうに見えた」 「うん」 「5歳くらいの時、私の部屋に両親が来て父さんと母さんどっちと一緒に暮らしたい?と聞かれた。ずっと母といたから母と答えたの」  両親が別居するなんて5歳の頃はよくわからなかった。  父とはほとんど会っていなかったので居ても居なくても変わらない人、と思ってその場で母と答えた。 「でも父が私の部屋から出ていくとき、背中を見て一人で寂しそう、可哀そうって思ったの。そうしたら咄嗟に父を追っていた」 「うん」 「その次の日母が出て行ったことを知らされた」  子供ながらに母がいなくなることは予想がついた。でも私が父を選んだから何も言わずに出て行ったのだと思った。   「あの時何故父を選んだのか分からない。ずっと一緒にいて見守ってくれた母の方が関わっていたはずなのに。あの頃すでに東雲の人間としての自覚を植え付けられていたのかも」  私は無理矢理笑顔を作って彼に向けた。そうしないと泣きそうだし、重い話をして申し訳ない気持ちもあった。  彼は私の頭を腕に抱きこんで「無理に笑わなくていいよ」と言ってくれた。   「その後、旧邸に住む祖父が会うたびに母への悪態をついて私にはそうなるなと口を酸っぱくして言っていた。ああ、これで母は出て行ったのかと思った。東雲に母の味方はいなかった。その上私まで母を傷つけた」 「うん」 「父に一度だけ、お母さんはどこに行ったの?と聞いたことがある。母は海外に行っているとだけ教えてくれた。でも会いに行きたいなんて思わなかった。味方にならなかった私が会いに行っても喜ばないだろうなって思ったから」  彼は聞きながら頭を抱えて私を撫でてくれている。私は口を閉じて彼の胸に身をゆだねた。  そのまましばらく無言の時間が続く。   「そっか。話してくれてありがとう。落ち着いたら父さんの部屋に行こう」  彼はそう言って私の気が済むまで頭を撫で続けてくれた。        
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