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12-4 過去
父の私室の扉の前に立つ。
誕生日の前日以来この部屋へ来た。
あの時は中に彼がいて驚いたが、今は隣で手を握ってくれている。頷き合った後深呼吸をする。ノックするとあの時と同じように「どうぞ」という父の声が聞こえた。
「待っていたよ」
父はデスクで書類を見ていたようだが応接セットに座るよう促され、父と私達二人が対面する。
意を決したように父が口を開く。
「あの日の事は覚えているか。幸枝がこの家を出た前日のことだ」
私は無言で頷く。先程彼に話した日のことだ。
「たった5歳のお前に辛い選択をさせたのは我々の落ち度だ。済まなかった」
父が頭を下げる。慌てて「頭を上げてください」と言う。
父は頭を上げて再び話始める。
「私と幸枝は中学高校で同級生だったんだよ。私がずっと片思いをしていた。しかしこの家で恋愛結婚は望めないし好きになっても仕方ないと思って何もしなかった」
私は頷く。
「お互い違う大学へ進学して、彼女を忘れようとしていた。しかし私は20歳を目前に家から逃げ出した」
父は例の教育が始まる直前、やはり母への恋心が捨てきれず大学で待ち伏せして告白したという。
母はまるで父の事が眼中になく、東雲財閥だということも知らなかった。父は友人の家に居候しながら母に猛アタックをして1か月後交際の了承を得る。
「もっと早く動けよと当時の私に言ってやりたい」
父は苦笑いをしながらも懐かしそうに話す。
交際の了承を得た父は家に帰り祖父へ心に決めた人がいると報告した。
すでに用意していた教育係の女性に恥をかかせる形となり、跡取り候補から外されそうになった。
しかし祖父は血縁至上主義だったので、結果を残すことを約束して家に戻れたらしい。
「幸枝は卒業後幼い頃からの夢を叶えて教師になった。都内の公立小学校で数年務めたが妊娠したタイミングで先代から仕事を辞めるようにしつこく言われた。私も子育てが落ち着いたら復職すればいいと言って同調した」
父は東雲の方針に背いた手前、絶対に結果を出さなければならなかった。
昼夜問わず仕事に邁進した結果、家庭をおろそかにしてしまった。
「当時の幸枝は少し心を病んでいたと思う。夢を奪われ、娘を厳しくしつけられ、肝心の夫も味方をしてくれない。それでも私は少し距離を取ればいいと思って一時的な別居を提案した。彩音と二人で住むマンションを用意して、一応お前の意思も聞いておくかぐらいの気持ちだった」
父は苦々しい表情でため息をついた。
「本末転倒もいいところだよ。幸枝は出て行ったし、やはり教育は必要だといって先代はお前に厳しく当たった」
当時だって心の病は問題視されていた。軽く扱ったのは東雲や自分の意識が旧態依然としていたからだ、と父は悔やんだ。
母はそのマンションには行かず実家に帰り、父が会いに行っても門前払いだった。
やがて母は実家の田舎である愛媛に移住し、心の健康を徐々に取り戻した。
知り合いに誘われて途上国での教育支援をするNGO団体に参加し、子どもたちに読み書きや計算などを教えるようになった。
「お前のことはずっと気にかけて私と連絡をとっていた。しかし先代が亡くなってもう責める人間はいないといっても頑なにお前に会おうとしなかった」
私は自分の手をぎゅっと握りしめ父の話に耳を傾ける。
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