1-1 誕生日前日

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1-1 誕生日前日

 父の自室の扉の前に立つ。  とうとうこの日が来た。長い時間をかけて覚悟をしてきたつもりだが、やはり足がすくむ。  深呼吸してノックすると「どうぞ」という父の声が聞こえた。    「例の件、光瑠(ひかる)に頼んだから。東雲家のためにしっかり学びなさい」    私は歓喜と戸惑いを一切態度に出さず 「わかりました。光瑠兄様、よろしくお願い致します」  父の左奥に佇む血の繋がらない兄の方を向き深々とお辞儀した。 「こちらこそ宜しく。気軽になんでも頼って」  と微笑を浮かべながら私に答えた。    呼び出しがあった時から用件は察していたものの兄が目に入った時は動揺して一瞬足が止まった。  まさか兄様に教えてもらえるなんて……  元華族である東雲家は東京都港区の洋館風屋敷を本邸とし、日本4大財閥の一角を担う名家である。明治維新により動乱の時代の中貿易で財を成した。糸や織物の輸出から始まり運輸、機械工業、建設、不動産など事業をどんどん拡大していき今は金融やIT関連まで手を広げている。  その膨張する事業の中で婚姻により優秀な人物や関連会社と信頼関係を結ぶことが慣習となっていった。  しかし明治後期、東雲がある新事業を始めるに当たりその業界の大物の娘と次期当主が婚姻を結んだものの夫の方が不倫して駆け落ちする事件が起き、金も信頼も失った。  それから東雲家では良い夫婦生活を維持するために生まれる子に炊事、教養、道徳、勉学、芸術など様々な教育が施されるようになり、それは夜の夫婦生活にも及んだ。  1年間男女の営みについて手ほどきを受ける。あまりずるずると関係が長引くと良くないということで期限が設けられ、然るべき相手が当てがわれる。    男女問わずこの教育は施されその後離婚や不倫などの家庭内の揉め事は無くなり今もこの習わしが残っている。  昔はもっと早い年齢で行っていたらしいが今は二十歳を迎えた日から開始する。    このことを聞いたのは小学校高学年。学校の授業で性教育を受けた日だった。いつもお世話してくれている古株のメイド長から聞かされた。  そこまでするか、そう思った。ショックはあったものの実感もなく、結婚相手を自分で選べると思って無かったので愛のない結婚生活を繋ぎ止めるためは有効な手段なのだろうと自分で落とし所を見つけた。  相手については「選べない物については考えない」というポリシーに基づき考えないようにしてきたし、誰かと恋仲になるなんて憧れもとうの昔に諦めてしまった。  自室に帰っても実感が沸かずフワフワした気持ちで机に向かい、読みかけのビジネス書を開いた。  目で文字を追うもののこれから兄との間に起こることを想像してしまう。ちゃんと女性として見てもらえるかしら。醜態を晒して幻滅されたらどうしよう、などと考えていたらノックの音がした。   「どうぞ」 「夜分にごめんね」  兄が部屋に入ってきた。 「いえ、兄弟に遠慮はいりません。よかったらあちらへどうぞ」 「ありがとう、座らせてもらうね」  窓際にある小さいテーブル用の椅子に腰掛けた。私もデスクから立ち上がり彼の向かいに座る。  彼は視線を落としていたが意を決した様に口を開いた。 「君の教育係に俺が選ばれたよ。明日の君の誕生日から始められる。でもその前に聞きたい。俺で良いの」  テーブルの上に手を組み真っ直ぐ私を見て聞いてきた。私も真っ直ぐ見つめ返す。 「兄様なら何の心配もありません。むしろ知った仲の方で安心しました」  彼はふっと視線を逸らす。 「そっか。まあこの制度のことははっきりとは分からないんだけど」  分家はどうなっているのだろう。あるとは聞いたことあるけど。   「それで明日の君の誕生日、俺とデートしてくれないかな。父さんの許可はとってるから」  えっ兄様と誕生日デート?何それ嬉しすぎる。 「明日は金曜日ですよね。授業は15時までなのでその後なら喜んで」  沸き立つ心を悟られない様、いつも通りにこやかに答える。 「そう。俺も夕方までに仕事終わらせるからこの家で待っててくれる?迎えに来るよ」 「わかりました。デートなんて初めてです」 「光栄だな。じゃあまた明日」 「はい。おやすみなさい」 「おやすみ」  彼は立ち上がり私の頭を撫でて部屋を辞した。触って貰えたのは嬉しいけど、ちょっと子供扱いにも思えて複雑な気持ちになった。    二十歳になった途端夜に外出、それもデートなんて。  大学に入って少しは自由が出来たものの、外出はあまりしない。門限なんて知らない。高校までは学校が終わったら家庭教師や習い事の予定が容赦なく組まれていた。  大学に入ると習い事は減らせたが、家の事業に関連するパーティーや会食に駆り出され、その為の準備と学業、東雲の各事業についての勉強などで日々を過ごしてきた。  友達はいるが、事情を理解してくれて放課後や休日の誘いはほぼない。しかし授業と授業の空き時間やランチタイムに他愛の無い会話をすることがささやかだが大切な時間となっている。    幼いころからずっと覚悟していた二十歳の誕生日。それが密かに想いを寄せる人とデートだなんて。  楽しみと信じがたい気持ちが入り混じり落ち着かない。  明日、どんな誕生日になるのだろう。
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