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件のクラリネッティストは、三喜雄の部屋の2つ隣に、学部生時代から暮らしている。それをいいことに、引っ越してきたばかりの三喜雄に、わからないことがあれば何でも聞いてくれなどと言って近づいたと思われた。
本来三喜雄の相談に乗るのは、天音の役目のはずだった(と、天音は認識している)。三喜雄が、授業のこと以外はあまり尋ねてこないなと思っていたら、小田がちゃっかり割り込んで来ていたのである。
そのことに気づいたのは、ゴールデンウィークに入る直前だった。三喜雄が体調を崩して授業を休んだので、天音が彼の好物のプリンを買って見舞いに行った時のことである。
初めて訪れた「コラール千駄木」は、古かったがきちんと手入れされており、三喜雄の部屋も築40年とは思えないほど、隅々までリフォームされていた。三喜雄の体調はやや心配だったものの、彼が快適に生活しているらしいことに対して、天音は安心した。
天音がプリンを4個も持って行ったので、三喜雄は天音にも食べるように言い、自分も美味しいと言いながら食べた。そんな三喜雄の姿を見て、ほわっとした幸福感を楽しんでいた天音だったが、開けられた窓から場の雰囲気を掻き乱すクラリネットの音が聴こえてきた。三喜雄はそれに反応する。
「隣の隣に器楽専攻の小田が住んでるんだ、塚山はあまり話さないかな? 親切で楽しい奴だよ」
熱がありぼんやりした目をしているのに、笑顔で隣人について話す三喜雄を見て、天音は小田の存在に軽いショックを受け、苛立ちを覚えた。しかし病人相手なので堪えた。甘いクラリネットの音色には、三喜雄の声とは違った官能的な魅力があり、噂通りなかなかの奏者のようだ。
いろいろ心配だったが、長居は三喜雄を疲れさせると思い、プリンを食べ終わると、天音はその場を辞した。ずっとバラードを奏で続けるクラリネットの音が、何やら呪わしく感じられた。
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