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帰り道
その日、私は落ち込んでいた。
「白野さんは、もっと笑った方が良いですよ」
と会社の先輩に言われたのが退勤前のこと
「白野さんって、ずっと無表情でしょ。それだと周りの雰囲気も沈んでしまうというか……、まあできる限りでいいので、笑顔を心がけた方が良いですよ」
デスクを片付け、さて帰ろうとしたところそんなことを言われた。
笑顔、と言われましても。
女子トイレの鏡の前に立ってみる。ショートヘアに眼鏡。そしてどんよりとした目。確かに景気の悪そうな顔だった。口の端を上げて笑ってみる。
にへら。
なんというか口の横に皺を押し付けたような、ぎこちない姿だった。私は笑顔もできないのか。敗北感を抱え込んで、会社を後にした。
電車に乗り込むと、高校生だろうか三人の男子学生が互いを指さし笑っていた。座席では会社の同僚らしい二人の女性が笑みを浮かべて談笑している。こうしてみると、案外笑顔というものは身近にあるらしい。残念ながら私の周囲一メートルにはなかった。
気が付けば最寄りの駅につき、押し出されるように電車を出ると、空はすっかりと暗くなっていた。昼前は雨が降っていたものの、今は雲ひとつない満月が星々を彩っている。太陽光に比べて随分と劣る月明かりすら、今の私には眩しかった
ああ、今、私はしおれている。
けれどきっと私の顔には出ていないんだろうなぁ。
ため息を吐き出した住宅街の路地。近くからは焼き魚だろうか、香ばしい香りが民家から流れている。家族の笑い声。なべが煮たつ音。
ああ、お腹がすいた。
美味しいものでも食べよう。そうすればこのモヤモヤも多少はマシになるだろう。
毎日通っているコンビニ。焼け付くような夏がすぎ、遅れてきた秋のキャンペーンメニューが並ぶ。カボチャ味のシュークリームをみて、そういえばもう少しでハロウィーンであることを思い出す。
とはいえ奇をてらったメニューを頼む気は起きず、シンプルかつ贅沢に、プラスチックの箱に詰められたいちごのショートを手にとる。
聞き飽きたコンビニチャイムを背に、袋にケーキと夜食のカップヌードルを詰め、夜風の寒い歩道を歩く。
七時過ぎとはいえ、路地一つ曲がると道は細まり、行き交う車の数も大きく減る。途端に寒々とした気持ちが胸によぎる。
にゃあ。
猫。今、思えば諸悪の根源に出会ったのは、その時だった。
二十キロ制限の道路標識の下に、ダンボールが置いてあり、三毛猫が一匹いた。街灯に照らされたその姿は、なんとも寂しそうに見えた。
にゃあ。
猫は目ざとく、買い物袋に顔を向ける。段ボールから身を乗り出し、今にも飛び掛かろうとしている。
「めざとい奴め」
お腹を空かしているのだろうか。段ボールの上から手を出し、バタバタと振りながらコチラを見ている。よくよく見れば、随分と体は細く、よほど何も食べてないらしい。
試しに袋からケーキを出してみる。
にゃあ。にゃあ。にゃあ。
猫は尻尾をふりふりしている。分かりやすい奴め。
そんなに鳴いているのを見たら、どうにも立ち去りづらい。私はため息を吐く。さよなら私の三百二十円。
「ほれ」
プラスチックを開けて、ケーキを鷲掴みにして、段ボールの中に置く。途端に猫がガツガツと食べ出す。よほどお腹が空いていたらしい。手についたクリームを舐めていると、ケーキはみるみると猫の腹の中に消えていった。
ため息を吐いて私は猫に背を向ける。先輩に色々言われたり、猫に食べ物をたかられたりと、散々な1日だった。もう帰ってカップヌードル食べて寝よう。
路地をぬけ、五階建てのマンションにたどり着き、ほっと一息を吐く。その時ふと、疑問が一つ頭をよぎる。
「猫ってケーキ食べてよかったっけ?」
……まあいいや。もう終わったことだし、気にしても仕方ない。腹を壊したら勝手に食べたあの子が悪い。うん。そう思うことにしよう。
結論から言えば、猫の件はこれで終わりではなかった。それを思い知るのは、午後十一時、もう寝ようとベッドに入り込んだ時のことである。
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