0人が本棚に入れています
本棚に追加
月夜の出会い
空を見上げると、満天の星空に赤い月が妖しく輝いていた。
田舎町の坂道を歩きながら、私は珍しい光景に、酔った体でふわりと回る。
今日は新入社員の歓迎会だった。私も今年から新社会人として働き始める。上司も、先輩も、同僚もいい人ばかりで当たりだったかもしれない。ちゃんとこうして終電前に帰してくれるし、ホワイトと言っていいだろう。
都会への憧れはあったけれど、まずは地元で経験を積んで、お金を貯め上京するつもりだ。実家もいずれ出て、自立したいと思っている。
これからの生活に期待を抱きながら、歩を進める。私の家はこの道の少し先だ。勾配の緩やかな坂道の頂上まで来ると、電灯の下に人影が見えた。
私は珍しいなと視線を惹き寄せられる。
この辺りに人家は無い。
ガードレールの向こうは崖。背後も空き地だ。実家の周りも田んぼばかりなのに。
そして何より、その容姿が目を惹いた。
薄いブルーの髪に、赤い瞳。背が高く、彫りの深い整った顔の男性だ。シンプルなシャツとスラックスが、均整の取れた体型にとても似合っている。
それは電灯に照らされ、まだ離れた位置からも確認できた。
でも、今どきそんな人は五万といる。ヘアカラーは多彩だし、カラコンだって豊富だ。
それでも珍しいと思ったのは、その人が年上だったから。見た感じ、三十前半と言ったところだろうか。それにこんな田舎町で、これほど派手な出で立ちはそう見ない。
私は気になりつつも、知らぬ素振りで通り過ぎようとした。
その時。
「こんばんは。いい月夜ですね」
不意にかけられた、テノールの声。
私はつい、勢いよく振り向いてしまった。
そこには私を見つめながら微笑む男性。
しばし見蕩れると、ハッとして言葉を返す。
「あ、はい。こんばんは。珍しい月ですよね」
私は月に視線を移し、大きく息を吸う。
春先の夜の空気は少し冷たく、酔った体に心地いい。
男性も月を見ながら、微笑んだ。
「ええ、こんな月が見れるなんて、ここに来て良かった」
少し含みのある言葉に、私は問いかけた。
「もしかして、最近引っ越されて来たんですか?」
ここは田舎町でも、更に端の方だ。ご近所さんは大体顔見知り。こんな人が越して来たという話は聞かないけれど。
私の質問に、男性は苦笑しながら答える。
「まぁ、そんなものです。大学から地質調査に来たんですよ。この辺りは地層が観察しやすいんです。ご存知でしたか?」
返ってきた問に、私は首を振る。
「いえ、知りませんでした。大学から来られるって事は、教授でいらっしゃるんですか?」
年の感じからしてそうなのかと聞いてみると、男性は首肯した。
「はい。大学で地球の地質学を研究しています。面白いですよ。地層は四十五億年の記憶を教えてくれます」
地球。
私はその言葉に引っ掛かりを覚えた。
何故、わざわざ地球って言うの?
「地球……ですか。まるで異星人みたいな言い方ですね」
思わず言ってしまって、慌てて口を閉じる。
でも、男性は面白そうに笑った。
「ほう……異星人ですか。貴女も中々面白い事を仰る。宇宙人とは言わないんですね」
怒っていない口振りに、私はほっと胸を撫で下ろし、持論を述べる。
「だって、地球人も宇宙人でしょう? ︎︎日本に住んでるから日本人。地球に住んでるから地球人。なら、宇宙に住んでる私達は宇宙人です」
それを聞いて、男性は声を上げて笑った。
「なるほど。言い得て妙ですね。では異星人は存在すると思っておいでで?」
興味津々といった様子で更に問いを重ねる男性。それでも私はするりと答えた。
「はい。地球人という宇宙人がいる以上、逆に異星人がいないって言うのは不自然です。宇宙には数億、数兆の星があるんですよ? ︎︎なのに地球が特別なんて、そんなのナンセンスですよ」
むふーと鼻息も荒く高説を垂れる。
これは以前、友人にも言った事があるけれど、バカにされて終わった。宇宙人なんて非科学的だと言って。
そっちの方が非科学的だと思うんだけどな。
でも、男性は違った。
面白そうに目を細め、私を見つめる。
「確かに、この星だけが特別なんて、そんなのは傲慢な選民思想です。知らないものは存在しないと考える者は少なくありません。科学はそれを可視化するひとつの手段です。地質学もそう。誰も知らない太古の世界を見せてくれます」
月を見上げる男性の横顔は、好奇心に満ちていた。私も並んで月を見上げる。
なんだか不思議な感覚。
見慣れた夜空が、より一層輝いて見えた。
「……名残惜しいですが、そろそろお別れの時間ですね。もう日付が変わってしまいました。貴女と話せて良かった。今日の日を忘れる事は無いでしょう」
言われて、腕時計を見ると、もう一時近い。
あ、と口が開き私は慌てて踵を返した。
「すみません。私、明日も仕事で。お話できて楽しかったです。またお会いできますか?」
できればまた会いたい。
そう思いを込めて言ってみたけれど、ゆっくりと首は横に振られた。
「いえ……もう、帰らなければならないんです。次に来るのはいつか分かりません。その時、また会えたら、とても嬉しいです」
そう言って、右手を差し出す。
残念だけど、私達はたまたま出会っただけの他人。引き止める権利も無い。
私は差し出された手を握り、笑う。
「その時はお茶でもしましょう。貴方とは気が合いそう」
男性も、私の手を握り返し、頷く。
私は思いを振り切るように手を離し、一歩を踏み出した。
でも、その歩みはすぐに止まり、振り返る。
そこには、ただ電灯の明かりだけが夜道を照らしていた。
最初のコメントを投稿しよう!