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第3話 自由の種類の選択肢
酷く臭くて、それも例えるなら公共のトイレで前の人と入れ違いに入ってしまい、正直失敗したよなあと思ったときに似た臭い。更にプラスしてシナモンだっけ、あれと草刈りしてる時の匂いをごちゃまぜにしたみたいな青臭さ。
まずはトイレっぽい臭さで僕は内心かなり慌てて身を起こした。でも自分の身に何の異変も起きていないのを察知して心の底から安堵する。
貧血で立てなくなったのも覚えていた。けれどたぶん原因は食べていなかっただけじゃない。夜は交換でカネを得るのに忙しくて寝てなかったし、昼間は土日祝日以外は学校がある。
割と稼げた翌日は休日にしていたが、母親の彼氏に蹴飛ばされて目覚め、サンドバッグと勘違いされていては誰かとホテルのベッドで横になっている方がマシだったりする。
母親の彼氏はカネで買った権利じゃなく、ただ僕の態度が気に食わないとか、それこそ反抗的な目をしたからとか、先に眠っていたからとか、とにかくいちいち理由を捏ねて暴力を『しつけ』なる義務にすり替えるから面倒だ。
義務だからしなきゃならない。自分に与えられた作為義務。破れば地獄で制裁が待っているとでも思っているみたいに執拗。地獄はもぬけの殻って言ったの誰だっけ。
それはともかく腕時計を見ると午前三時を過ぎていた。
脱力して失敗した訳じゃないのに、この臭さは何だろうと思う。そこでもうひとつ気付いたのは煙だった。でも、お香にしては趣味が悪すぎだろう。
寝かされていた二人掛けソファに座り直し、掛けて貰っていたバスタオルにしては大きくタオルケットにしては小さいタオル地の布を畳んで隣に置いた。
改めて見た、あの女性の住まいと思われる空間はアパートの一間でフローリングだった。そう表現すれば普通っぽいが室内は異様だ。
僕がいるソファの他に家具は目の前の小さなロウテーブルだけで、あとは壁際に衣装ケースが二列、天井近くまで積み上がっている。その殆どがちゃんと閉まっていなくて服だろう様々な色の布がはみ出し垂れ下がっていた。
床にも服が散乱している。
それだけなら以前に流行った『片づけられない人』なのかと思うけれど、見えている範囲の壁がスプレーペイントで埋め尽くされていると、この部屋の住人は結構危ない人なんじゃないかと大抵の人間が考えるだろう。
ペイントはよく公共のコンクリート壁や店舗のシャッターなどに描かれているような立体感のある英単語だの、海外アニメのキャラクターだの、突然にしてカタカナで卑猥な言葉や卑猥な絵が殴り書きされていたり。
それがおそらく白かった壁紙の全面をまんべんなく覆っている。つぶさに隙間を埋めようとしたかの如き、ある意味に於いてはとても几帳面なアート、なのか?
たぶんここは賃貸アパートの一室で、なら壁に絵を描いても家主に文句は言われないのだろうかという当然の疑問が湧いたけれど、離れた床にペタリと座って僕に背を向け、煙草を吸っているらしいあの女性に声を掛ける勇気が湧かない。
優しいのか、お人好しなのか、それともおせっかいなのかは分からない。でも心配してはくれて、僕をどうやってかこの部屋まで連れてきて寝かせてくれた。その点から僕に対して悪意を含む行動を取る可能性は低いと判断する。
そこでようやく煙草を吸うアーミーグリーンのタンクトップの背中に声を投げようとした。だが僅差で女性の方が振り向きもせず声を出したのでギョッとした。
「ねえ、あんたもやらない?」
「ええと、煙草はいいです」
「『いいです』っていうのはどっち?」
「あ、要らないです」
「はっきりしないわね、どっちよ……」
女性の物言いはとてもゆっくりで時折欠伸交じりになったり、舌でも噛んだのかと思うほど、とにかく間延びして聴こえた。
僕の母親が昼間に眠れないとかでたまに睡眠薬を飲むことがあり、その睡眠薬がもの忘れさせるらしく、またも睡眠薬を飲むという過剰摂取に陥ったりするのに出くわしたことがあるが、丁度そんな感じに思える。
なら、この女性はオーバードーズでとんでいるのかも知れない。醒めるまで待っていると今夜はもう収入を諦めなければならなくなる。
時間的には既に無理っぽかったけれど、お礼を言ってこの異様な部屋を辞して……と考えたけれど甘かった。
ソファから立ち上がったところで女性が言ったのだ。
「ねえ、あんた。おカネ欲しいなら、これ売らない?」
「これ……?」
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