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水上艇に上がると、ぼくらはスーツを脱いで洗浄ユニットに押し込んだ。HK-38の海水は強アルカリ性のため、劣化を防ぐために必要な措置だ。大切な水を節約すべく、自分の体はシートで拭うにとどめる。
ひと足早く清拭を終えたクサノは、ラボでコーヒーを入れていた。
「お前も飲むだろ」
「ああ」
ぼくとクサノはHK-38における、たった二人の調査員だ。
初めて地球外生命が発見されてから一世紀。当時の熱狂が去った今、生命探査事業には厳しい冬の時代が到来している。かかる金や人手に対して、ペイできるだけの実入りがほとんどないからだ。
そんな逆風の中、駆け出しの生物学者であるぼくらは全てを賭けてHK-38に来た。そして、ハガチを発見した。今までに見つかった中で最も大きく、群れで生活する知能や社会性まで備えた地球外生物。これを発表すれば、ぼくらが成功を約束された幸福な二人の若者となることは間違いないだろう。
ただし、その幸福には濃淡があるのだが。
マグカップを差し出しながら、クサノは子どものようにはしゃいだ声を上げた。
「早くビールで乾杯したいなあ。いや、シャンパンかな」
「それより先に論文だろ」
「わかってる! もう草稿はできてるんだ。あとはデータをまとめるだけさ」
論文は二人の名前で出すことになっている。だが、栄誉ある第一著者となるのはクサノの方だ。なぜなら、探査先を決めたのがクサノだから。文字通り星の数ほど上がってきた候補の中から、膨大な計算と直感でHK-38を選んだ。
では、ぼくは何をしたのか? それ以外の全てだ。スポンサーになりそうな企業や団体、果ては親戚じゅうを駆け回り、頭を下げて資金を集めた。HK-38の環境に合わせた特注のスーツや水上艇、その他のこまごました備品を揃えた。星間航行のクルーや、軌道上で待機する支援スタッフを手配した。調査計画を練り、関係者のスケジュールを調整した。何ごとにも及び腰なクサノの尻を蹴り上げて励まし、奮起させた。
そうして、今回の探査を実現させた。全てぼくがやったのだ。
「ところで、さっきの話だけど……」
ぼくの内心など知らないクサノが話し続ける。緊張した声の調子から、もう用件がわかってしまった。ぼくは正面の壁に目をやり、張り紙だらけのマグネットボードを睨みつけた。
「実は、彼女にプロポーズした」
「……へえ。で?」
「その、OKだって。帰ったら正式に婚約発表するつもり。でもお前には、先に言っておきたくて」
ボード上を埋めつくす分析結果やメモ書き、連絡事項などの陰に、一枚の写真がのぞいている。学生時代のぼくとクサノ、その間で微笑む彼女。
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