憑物

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 翌日、まだ暗いうちにさよは淵へと発った。  領主に禁じられても、水を飲んだ後に赤みの差した母の顔を思い浮かべれば、淵に赴くことをやめる気にはなれなかった。  父が娘を止めないのは、憤りがあったからだ。自分の子が濡れ衣を着せられたことに。村から追い出されるのを怖れ、娘を守れなかったことに。  さよは淵までの道中、狐の面をかぶり、手首を浅く曲げて胸の前に置いた。いつ人目に触れるかわからない。素顔で歩いていたと密告されれば、領主親子からさらなる怒りを買ってしまう。跳ねて進むため、面の内側は汗まみれだ。汗は目に沁み、涙を誘った。  無事に淵へと到着した。水辺は無人だった。  さよには、落ちる滝の水を竹筒に入れる身軽さも手足の長さもない。底の()りかの知れぬ淵に足を入れ、滝まで進むのはさすがに怖かった。  淵に竹筒を沈め、切れ目なく続く細かな泡を眺めていると、祠の先の茂みが揺れた。  竹筒を慌てて背中に隠してすぐ、背の高い影が現れた。長い腕に岩魚を数尾通した枝をぶらさげている。  ふう……。さよの口から安堵の息がもれた。 「だからおねえちゃん。魚を獲っちゃいけないんだよ」 「なんだ、さよなのか。どうした、その(なり)は」  面をかぶったままなのをすっかり忘れていた。 「祠を壊した罰なんだ」 「さよの仕業ではなかろう」 「そんな道理、久衛門様にも権助様にも通じないよ。悔しい。誰がやったか知りたい」  さよの声はふるえていたが、冴は一度頷いたきりなにも言わず、火を起こした。枝に刺した岩魚が五尾、焚火を囲む。さよはぼんやりと膝を抱え、冴は焼け具合をたしかめくるりと枝を回す。  焚火が熾火(おきび)に変わる頃、香ばしい匂いが面の隙間を縫ってさよの鼻に届いた。 「食べるだろう。面を外せ」  一本、さよに手渡す。 「龍神様しか食べちゃいけないんだよ」  と言いながらも、さよはよく火の通った背中にかぶりついていた。焼いた魚の匂いに勝てる空腹はない。熱い身を頬張り奥歯で噛む。鼻から満足の息を抜くと、火と清い水の香りがした。  さよが一口飲み込む間に、冴は既に二尾を平らげていた。頭から丸ごとかじり、骨の砕ける鈍い音を頬の内側で鳴らす。 「すごい食べ方だね。おねえちゃん、どこで魚を獲ったの」 「滝の上だな」  滝の上、と言われて初めて、さよは目の前の淵に上流があると思い当たった。この場で湧いた水ではないのだから、必ず水の流れがあるはずなのに、淵の水がどこから来ているのかには、考えが及ばなかった。これは、さよの父も母も領主も同じだ。 「地揺れか山崩れがあったようだな。細い沢が幾つも石で(ふさ)がれていた。村の水が減っているとさよは言っていたな。元に戻るよう、石は除けておいた」 「水が戻るの」 「すぐにとはいかんが、しばらくすればな。わずかなことで流れは変わる。もし戻らぬのなら、また邪魔な石を除ければいい」 「おねえちゃん、淵を守る龍神様みたい」  ふふ、と冴は小さく笑った。 「龍神か。見たことはあるのか」 「ないよ。でも、お父から聞いた。鹿みたいな角があって、蛇よりも長い体で、鱗が緑色だって」  腹には岩魚を、竹筒には淵の水を入れ、さよは家路に就いた。  面をかぶり、手首を曲げて飛び跳ねる。村の者は関りを怖れてか、さよを見た途端逃げて散る。どこに行っていたかと問われる機会のないことが、狐憑き唯一の利点だった。
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