憑物

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 さよは水を持ち帰るための竹筒を携え、素足で夜明けの山道を踏んでいた。  十歳(とお)になったばかりの足にはきつい傾斜が続く。だが、母を思う気持ちが勝り、疲れを感じなかった。 「てくてくてくてくうぅ」  母の病に心を痛めていても、持ち前の軽やかな気立てが、かなかなと鳴く(せみ)と同じ拍子を口の先に刻ませた。  さよが父母と寝起きする山間(やまあい)の集落には、良い水を通す沢があった。  近頃は流れが乏しくなり、桶を入れると底の砂利をすくい濁り水となる。清い水を求め、さよは山奥にある淵を目指していた。  行く先を覆う雑木の枝葉が切れ、さよの視界に滝が入った。初めて見る。父母の話では白い帯のように岩肌を叩くと聞いたが、遠目に見る滝は箸ほどの太さしかない。 「これじゃ水も減るよね。あれ?」  さよはあごを上げ、鼻にすんすんと空気を通した。魚を火に掛ける香ばしい匂いがする。 「人がいるんだ。引き返さなくちゃ」  領主の許しを得ずに淵へ近づくことは禁じられている。さよの今朝の行いは無断のものであった。  しかし後ずさる一方で、知りたい気持ちは膨れあがる。淵で魚を獲ることは領主であっても禁忌なのだ。いったい誰が、(いにしえ)よりの村の決め事を破っているのだろう。  さよは茂みに身を隠しながら、慎重に淵へ寄った。岩魚(いわな)の身を貫いた枝が焚火の周りに並んでいる。横顔を見せて座る影は若く大きく、村の誰でもなかった。肩で髪を切りそろえた者など一人もいない。  片方だけ立てた膝から伸びる(すね)も、拳大(こぶしだい)の石を(てのひら)ではずませる腕も、若竹の如くすんなりと長い。  息を封じ見入っていたさよの喉が、意に反してひゅいと鳴る。声にならぬ()を地に這わす。 「嘘でしょ、信じられない」  見知らぬ者は、手にした石を握りつぶしていた。まるで泥団子を割るような手軽さだ。石はちょうど真ん中から二つに分かたれている。 「なにか用か」  見慣れぬ顔がさよにむく。並みの男をはるかに(しの)ぐ体つきだが、女の声だった。  まさか、みつかるなんて……。  女とは二十歩ほども離れている。子供一人でなにをしに来た、と問われることを怖れ、さよは逃げようとした。が、茂みの隙間を縫って差し込む視線に射抜かれ動けない。  女の腕が上がり、おいでおいでと誘う。女に表情はない。  (あやつ)られるように足を運んださよは、予想外の言葉をかけられた。 「食べるか」  女は火であぶった魚を一つ取り、さよに勧めるではないか。あまりに気やすい声と仕草に、さよの背中から強張りが一本抜けた。 「ううん、いらない。あのね、ここで魚を()っちゃいけないんだよ」 「そうなのか」 「魚を獲っていいのは龍神様だけ。淵の水を飲んでいいのは領主様のお身内だけ」 「いろいろ決まりがあるのだな」  うん、と首の動きでのみ返事をし、さよは女の様子をひっそりと(うかが)った。
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