11人が本棚に入れています
本棚に追加
さよは水を持ち帰るための竹筒を携え、素足で夜明けの山道を踏んでいた。
十歳になったばかりの足にはきつい傾斜が続く。だが、母を思う気持ちが勝り、疲れを感じなかった。
「てくてくてくてくうぅ」
母の病に心を痛めていても、持ち前の軽やかな気立てが、かなかなと鳴く蝉と同じ拍子を口の先に刻ませた。
さよが父母と寝起きする山間の集落には、良い水を通す沢があった。
近頃は流れが乏しくなり、桶を入れると底の砂利をすくい濁り水となる。清い水を求め、さよは山奥にある淵を目指していた。
行く先を覆う雑木の枝葉が切れ、さよの視界に滝が入った。初めて見る。父母の話では白い帯のように岩肌を叩くと聞いたが、遠目に見る滝は箸ほどの太さしかない。
「これじゃ水も減るよね。あれ?」
さよはあごを上げ、鼻にすんすんと空気を通した。魚を火に掛ける香ばしい匂いがする。
「人がいるんだ。引き返さなくちゃ」
領主の許しを得ずに淵へ近づくことは禁じられている。さよの今朝の行いは無断のものであった。
しかし後ずさる一方で、知りたい気持ちは膨れあがる。淵で魚を獲ることは領主であっても禁忌なのだ。いったい誰が、古よりの村の決め事を破っているのだろう。
さよは茂みに身を隠しながら、慎重に淵へ寄った。岩魚の身を貫いた枝が焚火の周りに並んでいる。横顔を見せて座る影は若く大きく、村の誰でもなかった。肩で髪を切りそろえた者など一人もいない。
片方だけ立てた膝から伸びる脛も、拳大の石を掌ではずませる腕も、若竹の如くすんなりと長い。
息を封じ見入っていたさよの喉が、意に反してひゅいと鳴る。声にならぬ音を地に這わす。
「嘘でしょ、信じられない」
見知らぬ者は、手にした石を握りつぶしていた。まるで泥団子を割るような手軽さだ。石はちょうど真ん中から二つに分かたれている。
「なにか用か」
見慣れぬ顔がさよにむく。並みの男をはるかに凌ぐ体つきだが、女の声だった。
まさか、みつかるなんて……。
女とは二十歩ほども離れている。子供一人でなにをしに来た、と問われることを怖れ、さよは逃げようとした。が、茂みの隙間を縫って差し込む視線に射抜かれ動けない。
女の腕が上がり、おいでおいでと誘う。女に表情はない。
操られるように足を運んださよは、予想外の言葉をかけられた。
「食べるか」
女は火であぶった魚を一つ取り、さよに勧めるではないか。あまりに気やすい声と仕草に、さよの背中から強張りが一本抜けた。
「ううん、いらない。あのね、ここで魚を獲っちゃいけないんだよ」
「そうなのか」
「魚を獲っていいのは龍神様だけ。淵の水を飲んでいいのは領主様のお身内だけ」
「いろいろ決まりがあるのだな」
うん、と首の動きでのみ返事をし、さよは女の様子をひっそりと窺った。
最初のコメントを投稿しよう!