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日常
「匠(たくみ)さん!」
海からも川からも遠い、高級住宅街の中でも、高台の豪邸から出てきた少女、義川 寧々が、前の道を歩いている青年の下へと走った。
匠と呼ばれた青年は、セラー服を着た高校生の寧々よりも四歳年上の社会人だ。勤め先の工場の名前が入った作業着を着て、出勤する途中だ。
匠は家庭の事情で進学が出来ず、高校を中退して就職をした。苦労が滲み出るような、すこし気難しそうな雰囲気で、繊細な整った顔立ちをしている。
「おはようございます」
「走るな……」
匠は一瞬立ち止まり、寧々が近寄ってくるのを待った。
寧々は、予定日より早く低体重で出生し、先天的な心臓奇形と疾患を持って生まれた。今では、無理をしなければ日常生活を送れるようになったけれど、激しい運動は出来ない。幼い頃からの付き合いの匠は、つい口うるさくなりがちだった。
「琳士(りんじ)は?」
匠の側まできて、寧々が彼を見上げた。
「昨日、バイトから帰ってくるのが遅かった。起こしても起きないから置いてきた」
「えー、琳士、そろそろ出席日数が足りなくなるって言ってたのに。私、呼んできます」
匠の弟で、寧々の一つ年上の琳士は、寧々の私立女子校の近くの公立高校に通っていた。
幼い頃の寧々は、琳士と一緒にいつも匠に遊んで貰っていた。賢くて優しい匠は二人にとって憧れの存在だった。
あんな事件が起きなければ、匠はもっと輝かしい人生を送っていただろう。周囲の大人達は、そう嘆いていた。
「やめておけ、お前が遅刻するぞ」
走りだそうとする寧々の腕を、匠が掴んだ。
(匠さんの手……おっきい……)
照れた顔で寧々が匠を振り返った。
幼い頃から今でも、寧々は匠に淡い恋心を抱いていた。
寧々の、気持ちは昔も今も変わらないが、最近では、匠の方から距離を置かれ、以前のように家に訪れるのを嫌がられている。
昔は、いつ行っても「お前は、暇だな」と笑って迎えてくれていたが――。
心ない人間から、外壁に悪戯書きをされたり、窓を割られたりすることも増えたせいだ。
「大丈夫。私、品行方正な模範的な学生だから。遅刻しても怒られないです」
寧々がニヤっと笑うと、匠が寧々の腕を離して、目を閉じて空を見上げた。
「見た目に騙されてる……」
寧々の外見は、まさに病弱な美少女だった。色の白い卵形の小さい顔には、大きすぎないパッチリとした目、すこしハの字になっている優しい眉、筋の通った細い鼻に、形の整った唇。全てが上品で、見る者に柔らかい印象を与える。
「意外と五月蠅いし、我が強いのに、模範的な学生?」
匠が、ふっと笑うと、この街特有の山から吹き下ろしてくる強い風が吹いてきた。匠が自然と寧々の肩を掴んで風上に体をずらした。
呼吸の音すら聞こえそうなくらい近づいて、寧々の心臓が高鳴った。恥ずかしくて俯き、ギュッと握った手を胸に当てると、心配した匠が頭を下げて寧々の顔色を窺った。匠のセンター分けにされている前髪がサラサラと流れ風に揺れている。
「どうした? 心臓が痛いのか?」
最近すっかり定着してしまった匠の眉間の皺が深くなった。
(かっこいい……匠さん、最近はすっかり距離をとられちゃって、近くで見ることなかったけど、やっぱり格好いい)
思わず寧々は、じっと匠の顔を見上げた。
すこし目尻の上がった吊り目がちな茶色い目は、幅の太いくっきりとした二重に縁取られている。昔は朗らかに笑う青年だった匠は、あんな事件があってからは、すこし影を感じる青年になった。
寧々は、この幼馴染みの兄に昔から憧れていたので、彼に夢中になっている周囲の女性たちに嫉妬し、やきもきしていたが、今では彼女たちの姿は無い。
匠自身の本質は変わっていないのに、余りにも周囲が変わりすぎた。
匠の彼女達にずっと嫉妬していたけれど、こんな風に居なくなって欲しいとは思っていなかった。
「寧々? おい……大丈夫か?」
過去を思い出し、少しぼんやりしていた寧々の様子を不安に思い、匠が寧々の頬に手を添え、顔を自分に向けた。
「っ!」
(だ、駄目! そんな事されたら、嬉しくて絶対に変な顔しちゃう)
「大丈夫! 全然、なんともないですよ!」
あはは、と笑いながら、風になびく肩口まで伸びた色素の薄い茶色い髪を抑えた。
「本当か? お前の大丈夫は、大丈夫じゃない事の方が多い、後で倒れて大事になるだろう……」
「もう、子供じゃないから、本当に大丈夫」
「……」
まだ疑った目で見ている匠の視線から逃れようと、後ろを向くと見知った姿を発見した。
「琳士! 起きたの?」
寧々は、此方に向かって走ってくる幼馴染みに手を振った。
高校に入学してから、節々が痛いと毎日文句を言っている琳士は、背ばっかり伸びて、栄養が全て上に取られてヒョロヒョロだ。一八二㎝と十分背の高い匠よりも、更に大きくなってきている。
「おはよう寧々。酷いよ、兄さん。起こしてよ」
琳士が匠の肩を掴んで俯き、息を整えている。
「起こした。二度は蹴った」
匠が鬱陶しそうに、琳士の手を振り払い歩き出した。
「起きるまで、起こしてよ」
「知るか」
「琳士、去年の誕生日に買ってあげた、目覚ましは?」
寧々は精一杯背伸びをして、琳士の爆発した天然パーマの頭を手ぐしでとかした。寧々は、この一つ年上の幼馴染みを、情けない弟のように思っている。
「鳴ってないよ」
そういえば……という様子で琳士が答えた。
「お前……寝ながら止めてるぞ……あんなに鳴っているのに」
先を歩く匠が振り返って言った。
「えー、そっか、気がつかなかった」
「逆に大物だよね、琳士」
クスクスと寧々が笑うと、反対側からやって来た人が、ちらっと二人を見て目を逸らして足早に通り過ぎた。
寧々は、嫌な感じ、と唇を噛みしめた。
「寧々、バスの時間があるだろう」
匠に声を掛けられて、はっと腕時計を見た。バス停は直ぐそこだけど、そろそろ行かないと。
「琳士、さっさと走れ間に合わないぞ」
「あー! やばい! じゃあね、寧々、兄さん」
琳士が、自分の長い脚に振り回されるように走り去った。まだ、大きな自分の体が上手にコントロール出来ていないみたいで面白い。
「行ってらっしゃい」
寧々が琳士の背中に手を振った。
「……まったく」
再び歩き始めた匠が、大きくため息をついた。寧々は、それを見て、つい笑いながら隣を歩いた。
しっかり者の兄と、ちょっと頼りない弟。そんな表現がピッタリな兄弟だ。
寧々は一人っ子で、両親も他界しているので、家には祖父だけだ。自分にも兄弟がいたら、どんな感じだったのだろうかと妄想する。
「私も面白い弟か妹が欲しかったな」
「お前には、口うるさい兄か姉が必要だろう」
「どうしてですか?」
「監視役に。いや、寧々の場合、兄弟が下でも、そいつらがそうなるだろ」
「心外です。私は、きっと匠さんみたいな、優しくてしっかり者の姉になります」
「……」
ちらっと寧々を見下ろした匠が笑った。久々に見ることの出来た匠の笑顔に、寧々は嬉しくなって顔がにやけた。
「暴れずに大人しく過ごせよ」
バス停につくと、匠は寧々に声をかけ歩き出した。。
「女子高生は暴れません。行ってらっしゃい」
「あぁ」
寧々が笑顔で手を振ると、背を向けた匠が腕を少しだけ上げて答えた。
週末になり、寧々は琳士のバイト上がりを狙ってお店の近くにやって来た。その後、家に上がり込んで、匠に会いたいからだ。
寧々は、バイトも部活も祖父に禁止されている。幼い頃から病弱で、両親も相次いで無くした孫を、祖父はいたく心配している。父母と同様、祖父も軍に所属して居る為に、一緒に過ごす時間はあまり取れないが、家に勤めているお手伝いさんのハルさんは、気の良い人で、程々に寧々の行動を報告してくれている。
祖父は、あんな事があった葉鳥兄弟と関わることを快く思っていない。昔は、歓迎してくれていたのに……。
琳士のバイト先は、駅から少し歩いた所にあるラーメン店だ。寧々は、体の為に塩分の強い物が食べられないので、ラーメン店の細い道を挟んで隣のコンビニのイートインで飲み物を買って、琳士が出てくるのを待った。
程なくして、琳士が細い道に面する裏口から出てきた。
しかし、彼は後ろから揶揄われるように頭を叩かれて、強く押されて出てきた。傍から見ても、琳士があまりお店の人と上手くいっているように見えなかった。しかし、琳士は叩かれた頭に手を当てて笑いながら、彼らに頭を下げた。
「……」
心が痛かった。いつもの心臓が痛いのとは違い、悲しくて疼く痛みだ。
琳士も匠と同様に昔は、どの集団でも輪の中心になるタイプだった。彼らの優秀さと魅力に皆が憧れ、彼らの下には自然と人が集まった。しかし、今は違う。
寧々は、今、琳士を追いかけたら、彼が嫌な気持ちになるかも知れないと、先にスマホでメッセージを送った。
『バイト終わった? 今、どこ? 駅で会おう』
『分かった、待ってる。場所は?』
『琳士、人から頭飛び出てるから、すぐわかるよ』
ニコニコ笑っているスタンプを送信して、席を立った。
駅で合流した二人は、琳士の自宅へと向かった。
葉鳥家は、寧々の家の近くに建つ一軒家だ。彼らの父親は、事件を起こすまでは軍に所属し、そこそこの階級まで上り詰めていた。
過去、地球上に落ちたいくつかの隕石は、当時の生態系を脅かしたが、海の恐竜は滅びることなく現代にも存在し続けた。その為、各国の軍人の地位は高く、担い手不足にならないように給料も良い。
この高級住宅街に住む人々の中には、寧々の義川家や、匠と琳士の葉鳥家のように軍人の一族が多い。
葉鳥家の立派な家は、今では少し荒れている。
自宅で夫が妻とその愛人を殺害するという、ショッキングな事件は、すぐに世間や周囲に知れ渡り、様々な嫌がらせを受けた。
事件が起きてから四年が経ち、嫌がらせの頻度は減ったけれど、彼らの生活は苦しくなる一方だった。ローンも完済されておらず、月々の支払いに加え、高級住宅街ということが仇になり、税金も高額だ。売りに出しても殺人事件の起きた家の為に買い手が付かない。
匠が必死に働き、琳士も公立高校に通い毎日バイトをしているが、寧々は彼らがいつか体を壊して病気になるのでは? と心配で堪らなかった。だが、そう言葉にすると、彼らには、病気なのはお前だと笑われた。
匠は、いつか、この生活から抜け出す為にと、仕事をしながら研究と勉強に勤しんでいる。琳士も兄が高校くらい卒業しろと言う為に、学校に通っているが卒業したら、すぐに就職をして兄を助けたいと考えていた。
「ねぇ、琳士。昨日の動画見た? 送ったやつ」
「え? あぁ、あの寧々のスポーツテスト?」
「そう! 凄いでしょ」
寧々は高校で行ったスポーツテストの様子を、友人に撮って貰った。
今年は、体の調子が良く医師の許可が出て、走る競技以外の参加が許された。
「うん、凄かった。言っちゃ悪いけど……爆笑した」
琳士は長い枝のような体を折って、口元を肘で覆いながらクスクスと笑っている。鳥の巣のような髪がふわふわと揺れる。
「どうして? え? 何が面白かったの?」
寧々は、自分の雄姿を幼馴染みに見て欲しくて送ったのに、何故か笑われて困惑している。
(そういえば……周りの皆も、なんだか…ちょっと変な顔で微笑んでいたような……)
「だってさぁ、あの遠投なんて一番手前の線にすら届いてなかったよ! あはは、なんで目の前に叩きつけたの? 高飛びも、全然飛んでなかったよ、普通に背中で棒を落として寝っ転がっただけだったし!」
「……」
「垂直跳びなんて、なんで飛んだ後にボード叩いたの? もう、お腹よじれるかと思ったよ! 握力も、普通に両手使ってズルしてんのに、周りの子達みんなに頑張ってとか応援されてるし、あっ! あの反復横跳びのステップのやばさは……もう涙が出るほど笑ったよ! 思わず兄さんにも送った」
思い出して笑いながら目尻に涙を浮かべる琳士の言葉に、寧々がぎょっと目を見開いた。
「なっ……なんで、笑うほど酷いって思ったのに、匠さんに送るの⁉」
寧々が琳士の七分袖のTシャツを掴んだ。
「えっ、だってあんな面白いの共有したいし。あれ見るだけで、どんな時にも元気出るよ」
「最低! 琳士最低! 恥ずかしすぎる……自分では、ちゃんと出来てると思ってたのに……なんで、よりにもよって匠さんに……」
寧々が琳士の腕を掴み屈ませると、遠いフワフワな頭を叩いた。
「珍しく兄さんが声を出して笑ってたよ、凄いよ寧々」
「いやぁあ……もう、無理。今日は行けない。匠さんの顔が見られない……酷い、琳士なんて大嫌い」
「えー、大丈夫だよ。面白いし、一周回って可愛いよ……うん、多分ね。まぁ、兄さんの彼女って勉強もスポーツも出来る、クールな感じばっかりだったから、どうせ無理だよ」
寧々は、腕を離して、ろくろ首の顔を引き寄せるように、琳士の頬を挟んでぐっと近づけ睨み付けた。
「琳士……慰めてるの? けなしてるの?」
「真実を言ってるだけだよ。寧々、顔は絶世の美少女だけどね、兄さんのタイプじゃないし、妹だよ。早く諦めなよ。兄さんは最高に良い男だけど、寧々には苦労は似合わない。もうウチとは釣り合わないよ」
琳士の声のトーンが下がり、目に暗い影が差した。
「琳士は、いつの時代の人なの? お爺様と似たようなこと言わないで」
「お爺さんが正しい。僕らは寧々に救われたけど、僕は寧々のお爺さんに賛成だよ」
「……やっぱり、行く。早く帰ろう」
寧々は、いつの間にか大きくなった幼馴染みの手を掴んで歩き出した。
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