葉鳥 匠

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葉鳥 匠

 葉鳥 匠の人生は、昔から思い通りにならないことばかりだった。  父親は、母に対しても子供に対しても支配的な男で、気に食わないことがあれば暴力を振るった。最初は、見えない所に……次第に度を超してきて、妻の不貞を疑い出した頃には、場所も選ばなくなった。  命の危機を感じた母親は、匠と琳士を置いて、男と逃げる算段で、家から出ていこうとした。 でも、それで良かった。匠は、母が殴られているのを見るのも、もう嫌だった。  しかし、軍に勤め無駄に知識の多い仁彌に、上手く監視されていたようで、見つかってしまった。匠が高校から帰ると、おびただしい数のパトカーと警察、そして救急車が来ていた。事件は警察から聞かされた。  葉鳥兄弟は、母方の祖父の元にやられたけれど、直ぐに追い出された。匠は、それもそうだろうと思い受け入れた。祖父からすれば、娘を殺した男と半分血が繋がっているのだから。  仕方なく、二人は、母親が殺された家に戻った。 そして、そこから周囲の嫌がらせが酷くなった。  匠は、高校を中退して仕事を始めたが、そこでも下らない事を山ほどされた。彼は、冷めた怒りと、人間に対する落胆で、心が荒んで、乾いていった。  ただ……一人だけ、そんな二人に変わらず接する人間がいた。 「こんな事するなんて信じられない!」  彼女は、家に書かれた悪戯書きに怒り、二人と一緒にペンキを塗り、陰口を聞こえるように言ってくる住人に抗議した。  足を踏み入れるのも気持ち悪いであろう、葉鳥家に以前のように入り、二人に笑顔を振りまき、たわいない話をした。  寧々の存在だけが、匠と琳士の心の救いだった。 「匠さん」  寧々が高校に入るころには、彼女の視線に、ほんの少しの恋情を感じるようになった。 (なんで、こんな自分に……寧々、男の趣味が悪いだろう) と匠は呆れたが、嬉しかった。 寧々のことは昔から大切に思っていたし、一緒にいれば居るほど、魅了される。しかし、自分と居ても寧々が幸せになれるとは、到底思えなかった。だから、一時の風邪のようなものだと自分を律して、気がつかないフリをした。  しかし、匠の思いは募った。  暗闇の中で、糞みたいな世界の中で、寧々は、たった一人の光だった。  そんな相手に、無邪気に頬を染められて、嬉しそうに名前を呼ばれ、照れて遠慮がちに触れられる。愛しく思わずにはいられなかった。  別れの時には、泣いて縋られ……匠の心が抉られるようだった。  でも、好きだからこそ、愛しいからこそ……寧々には平穏で明るい世界で幸せになってほしかった。  数年後、大人になった寧々は、更に魅力的な女性になっていた。匠達と居た頃よりも、落ち着いた雰囲気で、相変わらず華奢で儚げな印象ではあるが、元気そうで安心した。 それと同時に、柄にもなく胸が痛んだ。もう彼女とは関係の無い世界で生きているのに、自分の気持ちは薄れるどころか積み重なっている。  ふとした瞬間に、寧々の顔がよぎる。どんな女性と付き合って肌を重ねても、むなしさしかない。  ついジッと見てしまい、不審に思われたが、かなり印象の変わった自分に気がつくとは思えなかった。  しかし、走って追ってこられた時、匠は馬鹿みたいに期待した。彼女の中に、まだ自分が存在出来ているのかと……。 「寧々」  絵に描いたような好青年が寧々を呼んだ。そして自分の雌を守る番のように、匠を威嚇した。匠が思い描いたような幸せを、寧々は掴んでいた。  平 詠臣は、どうみても、今まで真っ当で明るい道を進んできた、優秀で輝かしい男だった。  自分とは正反対な男だと思った。自分は今日まで生き残る為に、汚いことも散々やった。匠は、人から恨まれる事も日常茶飯事だった。  これで、良かった。匠は、そう納得しようとした。  しかし……これで、良かったはずなのに、寧々に「匠さん!」と再び呼ばれ、今まで押し込めてきた本心が、抑圧していた自分が、この殻を破ってしまいそうだった。 (本当は、寧々が好きだ。愛おしい相手には幸せになって欲しいが、それは……俺の隣では駄目なのか……)  匠は、あの男が心底羨ましかった。  匠にはない、思うとおりに生き、寧々と平穏な幸せを享受できる人生が。  今すぐ、奪い返してやりたいと思った。しかし、もう遅い。寧々の心がないなら意味が無いのだから。  そう自分をなだめすかしていたのに……。  匠は、目の前に現れた寧々をみて、激しい怒りが湧いた。寧々にではない、あの寧々と結婚した男に対してだ。  自分が何よりも大切に思ってきた寧々が、なぜこんなにも満身創痍なのだ?  よく知っている、殴られて出来た顔の痣。体中の怪我。暴行を受けたと思われる近づいただけで震える仕草。相手を恐怖して見上げる目。 (まさか、あの男が⁉ そもそも、何故こんな所に連れてきた? 寧々の体が、心臓が普通でないことは、夫である、あの男が一番分かっているのではないのか?)  確かに、SDIは当初よりは住みやすく安全な場所になった。金銭や経験を目的として、世界中から優秀な人材も集まっている。  しかし、体の弱い一般の女性が住みやすい場所ではない。この島で暮らす女性も増えたが、今でも殆どが男だ。女に飢えた、体力も気力も有り余る男ばかりの場所に、寧々のような女性は狼の餌でしかない。  日本から派遣される優秀なパイロットは、本来なら、平 詠臣になるだろうが、断ったと聞き、お荷物な部隊が来ると匠は思っていた。  その為に、日本の部隊をサポートする用意もしていたのに……。 (寧々の為に、断ったのではなかったのか? なぜ、わざわざ連れてきた? 分からない、いや……分からなくなった。あの男は寧々に暴力を? どちらにせよ、寧々が何者からか暴行されたのは明白だ……このまま、帰さない)  匠は、強い怒りに体が熱くなった。最近では、怒りすら感じることは無かったのに、改めて自分を平静では居られなくする寧々の存在の強さを感じた。 「何故、この島にいるのか聞いている」  呆然と見上げる寧々に、もう一度質問をした。 「あっ……あの、旦那さんが、此処に派遣される事になって……」  寧々の口から聞く、旦那という単語に怒りを感じた。 「此処は、お前のような人間が、住む場所じゃない」 「……すみません」  寧々は、怯えたように縮こまって俯いている。 (違う、そうじゃない……そんな顔をさせたい訳じゃない)  匠は、深く息を吐き出して、髪を掻いた。 「……着いて来い」 「……え?」  寧々の腕を掴んで連れていこうかと思ったが、包帯と痣を見て辞めた。怖がらせたい訳じゃない。 (来たくなる、餌を吊すしかないか……) 「琳士に会いたければ、着いて来い」 「は、はい!」  大きな目を見開いた寧々は、弾かれたようにベンチから立ち上がった。そして、匠が停めてあったバイクの所まで来ると、押しつけられたヘルメットを、少し躊躇ったあとで、被った。 「乗れ」  臆病な小動物みたいに固まっている寧々に、匠が声を掛けると、恐る恐る寧々が後ろに跨がった。 「嫌でもちゃんと掴まってろ、落ちるぞ」
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