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奏の興奮は止まらない。
そうやって、喋り続ける奏を見下ろしていた悠一は、ふと背後に気配を感じ取った。
「ああ、藤堂のヤツか」と。
「それ」はもう、すぐに分かってしまう。
なんとなくイヤな気分になった。
今はとにかく、奏の話をゆっくり聞いてやりたい。
悠一は、「なあ、とりあえず帰ろうぜ。靴、履き替えてこいよ」と、奏に告げた。
「うん、分かった」と頷き、奏が笑顔で踵を返す。
一組の靴箱は、ちょうど尊が佇む方向にあった。
バカみたいに目立つ「その男」の姿は、ことさらに見ないようにして、悠一はただ、歩みゆく奏だけを視線で追った。
藤堂と奏の距離が近づいていく。
奏の後姿――
その背中が肩が、突然、ガクンと弾き飛ばされるように大きく跳ねた。
顎をそらすみたいなスローモーションで、ゆっくりと、奏がくずおれる。
床に両膝がついた。
悠一の身体が、反射的に動き出す。
外履きのまま、屋内に駆け上がって廊下を走り出した。
匂いが――
奏の匂いが。
溢れ出す。
腰から腿へと。
みるみるうちに、奏のスラックスに広がる黒いシミ。
大輪の芍薬が一気に開花して。
一瞬にして、幾重もの花びらすべてが、ブワリと乱れて広がって。
もはや「花としての形」すらも成さないほどに。
すべてが崩れゆくようにして。
――奏がヒートを起こす。
藤堂尊の片眉が、僅かに引き上がった。
「とうどう、くん……」
奏の声が漂う。
あたりはシンと静まり返っていた。ただ、悠一が走る音だけが。
まっすぐに、奏へと走る足音だけが。
響く――
「藤堂、とうど…うくん、すごい、とうど…」
跪いたまま、尊へと両腕を差し伸べて、壊れたように繰り返す奏。
その背後に悠一がたどり着いた。
床に落ちたコートを拾って、奏の腰に巻きつける。
一気に溢れ出した奏の分泌液は、すでに床までも濡らしていた。
たちこめる、匂い。
オメガのヒート臭。
あまい、におい。
「なんだ、これ……」「なに、なんのニオイだよ……?」
「……え、ひょっとしてさ」
「ヒート?」
「……これって……ヒートかよ」「ヤバくないか」
ざわめきが、波紋のように広がっていく。
早くはやく、はやく――
奏をここから連れ出さないと。
でも、どうやって、どこへ?
分泌液を滴らせ続ける奏を背後から抱きとめながら、悠一は必死に考える。
「なに、スゲェにおい、なんだよこれ」
昇降口の外を通りがかった誰かの、悪気なくガキっぽい問いかけ。
「シッ、オマエ、声デカいよ」と、たしなめる声。
「なんか…小鳥遊とかいうヤツだろ……ほら二年の」
「ああ、アイツ……」「一組のヤツ?」
「ってか、保健医とか、呼んだ方がいいんじゃね?」
そんな、さやさやと葉擦れのような囁きが広がって。
「あ、っ…とうど、う、くん、とうどうくん…とう…ど、う」
繰り返し呼びながら、ウットリと尊を見上げる奏。
激しく乱れるその呼吸。
尊はゆっくり後ずさって、奏との距離を取る。
まっすぐは見つめないようにして。けれども注意深く、奏を視野ギリギリに入れながら。
尊がスマートフォンを取り出した。
誰かに何かを短く指示し、通話を切る。
そして、奏を周囲の視線から隠して守ろうと、背後から必死に抱き締める悠一に、尊がごく低く呼びかけた。
「春日、今、車を回したから……」
悠一は、尊の発した言葉の意味を、とっさに捉えそこなう。
「春日」
いま一度、はっきりと呼びかけて、腕を伸ばし、奏のカバンを拾い上げながら、尊がやや鋭い囁きで続けた。
「オレは『ソイツ』に、これ以上は近づけない。お前がそのまま、抱えて連れ出してくれ。今日はちょうど迎えが来ている。正門じゃなく、昇降口を出て左の通用口に車を回させた。いいな、行け」
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