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41.春日悠一の吐息
[66]
春日葬儀社の裏手に、藤堂家の黒塗りが止まる。
悠一を降ろすと、車はすぐさま走り去った。
それは単に、その後の藤堂尊の「予定」が「押して」いたからなのかもしれなくて。
別に悠一への「冷たい仕打ち」のようなものではなく。
午後の住宅地に不似合いな車が、長く停められることによって、周囲の視線や関心を集めたりしないようにと――
竹内や尊が、早々に立ち去ったのは。
ただ、悠一と悠一の家族への、そんな気遣いからに過ぎなかったのだろう。
「ただいま」の声もなく、玄関を開け、悠一は、ゆらりと家に入った。
ちょうど家にいた母親が、台所から出てきて、悠一を出迎える。
「悠一、どうしたんただ?」
問いかける母親の声は、驚くような色も、とがめ諫めるような棘も、何ひとつ纏っていなかった。
「驚かない」ワケはないはずだ。
制服は奏の分泌液で濡れそぼっていて、悠一の目は充血しきっている。
どうみても「普通」ではなかった。
そして、悠一に付着している奏の甘い匂いは、どんなに鈍感な人間だって分からないはずはない。なのに。
「……ともだちが」
悠一が低く呟く。
「具合……悪くなって、家に、おくって…」
母親は、ただコクリと頷いた。
そして、
「ほらユウ、寒いから、早く上がんなさい」と囁き、
「なんね? 友達って、かなでくんね」
と、サラリ続けた。
「ほら、そこ座りなん」と言って、母は悠一のコートと詰襟を脱がせ始める。
言われるがまま、悠一はダイニングの椅子に腰を下ろした。
「上着は、そんな汚れてないかね……拭うといてあげようかね」
そう言って、母親は洗面所の方へと歩き出す。
水音、そしてボイラーの音。
パタパタとスリッパの足音で、母が戻ってくる。
「お風呂、沸かしよるから、入りなさい。あがるとき、湯はもう抜いてしまって構わんだた」
うん、と頷く悠一に、ふわり、母親が続けた。
「ああ、ズボンは……もう、あれやねぇ。なんかまだ、制服の古いの取ってあったかぃね、でも一年生の時のじゃ短すぎるやろうね。急いで誂えてあげるし、とりあえずは、ほら、喪服のでも着といたん」
「分かった」とだけ呟いて、悠一は風呂場に向かう。
使った湯は捨ててしまっていいと、そう言われていたから。
悠一は掛湯もなしに、そのまま湯舟に飛び込んだ。
寒かった。
身体の震えが止まらなかった。だから。
お湯が痛いくらいに熱く感じた。
涙が溢れる。
悠一は、バシャバシャと何度も何度も顔を洗う。
陰茎は勃起を続けていた。
指筒で雑に扱いて、二回射精したら、少しおさまってくる。
そしてやっと、ひとつだけ、溜息をつくことができた。
照明をつけるのを忘れていた。
だが、弱々しいとはいえ、まだ外の日差しが差し込んでいたから、風呂場は薄明るい。
白く漂う湯気を見やりながら、悠一はふと、母親のことを考える。
「気が利かない」というワケでは、けっしてない人だ。
もちろん仕事柄、そんなことでは務まらない。
だが、どちらかといえば「おおらか」というか。
よその家の母親にありがちな、細かいコトに「いちいち気づく」タイプではないなと、そう思っていた。
そう。
「優しくない」というのとは、ぜんぜん違う。
「細やかな性格か?」と問われれば、それは疑問だなと、そう感じていただけのこと。
母は、悠一が陸上部を退部したワケも、問い詰めたりはしなかった。
元来の性格もあるだろうが、なにより家業がバタバタと忙しすぎるせいなのだろうと。
悠一はそう解釈していたのだ、だが。
違っていたのかもしれない――
「気づいていない」のでは、なくて。そうじゃなくて。たぶん。
「ああ、そうか……」と。
悠一が小さな呟きを洩らす。
父さんはきっと。
母さんのそういうところが、良かったのかもしれないな……と。
そんなところに、いつも救われてきたのかもな、と。
ボンヤリと曖昧な感慨が天啓のようにして。
悠一の背を、そっとそっと撫でていった。
*
「あの日の出来事」以降、奏は一度も、学校に姿を現さなかった。
送ったメッセージには、ひとつも既読がつかない。
スマホに、電源すら入っていないのかもしれない。
学校での日々は、普段通りに過ぎていった。
驚くほどに。
「あのこと」が話題にのぼることは、一切なかった。
まるで――
二年一組に「小鳥遊奏」なんていう人間など存在すらしていなかったかのように。
誰ひとり。
あの出来事も奏のことも、口にすることはなかった。
そして雪が降り、冬休みが来た。
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