7.名前は知っている。

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「あ、えっと、えっと…あの、さ」  奏は、大きく瞬きながら話し出す。  それを無視するみたいにして、悠一はグルリと室内を見まわした。    床に散らばしたままの、描き終えたデッサン用紙に、悠一の視線が止まる。 「……それって」  戸惑いながらも、何かを言おうと口を開きかけた悠一に先んじて、奏が、 「ああ、うん、そう、あのさ……」と話し出す。 「ゴメン! 勝手に描いちゃってて」    奏は目を閉じ、両掌をピタリと合わせた。  けれど、いつまで経っても、悠一からの応答は返ってこない。  長い睫毛に縁取られた瞼を、奏が、おずおずと開けた。  視界には、真正面に立って、斜めに視線をそらした春日悠一の姿があった。 「あのさ」  悠一が、低い声で言う。「オマエ……ひょっとして、前から」 「うん、そう。かなり前から描いてた」    即答されて、悠一は虚を突かれた気分になる。  そして、 「おう……そうかよ」とだけ、揺らめく低音で呟いた。  ふと、窓から風が吹き抜ける。 「なんで……開けてんの、窓なんか。もうけっこう寒くねぇか」  悠一がそう問えば、奏は、 「あ、うん、そうだけど…その……空気、こもるからさ、閉めてると」と言い淀む。 「あ、ごめん、春日…くん、寒い?」 「別に俺は……っていうか、オマエさ。俺の名前、知ってんだ?」 「え? ああ、うん、知ってる。名前だけは」 「……ふうん、『名前だけ』」  そうオウム返しに繰り返すと、悠一が、くしゃみをした。 「あ、やっぱり閉める? 窓」  奏が立ち上がって、窓へ向き直る。   「別にいいって。開けたいなら開けとけよ」  そう言って、悠一はカバンからフルレングスのナイロンパンツを取り出すと、ランパンの上からそのまま着込む。   「あ、えっと、えっと……よかったら、座って、春日くん」  そう言われ、悠一は手近の折り畳み椅子に腰かけた。 「……なんでさ」  言いかけて悠一が口ごもる。奏が「え?」と問い返した。 「なんで、そんなん……描いてんだよ」 「なんでって、次の油絵の下絵用」  奏が無邪気に応じる。 「イヤ、だからそうじゃなくって、なんで……『俺なんか』描いてんのって訊いてんだよ」 「その…それは、えっと。最初はさ……別のひとも描いてたんだけどね。うん、でもなんか結局、春日くんが一番いいかな……って」 「なんだよ、それって」 「なんていうかさ、一番、キレイっていうか」  予想外の答えだった。  悠一は、ギュッと喉を鳴らしたきり二の句が継げなくなる。 「フォームっていうか、走ってるとこが、スゴク綺麗だ」 「きれ…い、って」 「うん。なんか手足とか、全体のバランスとかもいいし」 「……『俺が』か?」  やや、ムッとした風に眉を寄せて、悠一が低く唸る。 「そう、春日くんさ、割と『モデル向き』かも」 「なに言ってんだよ……ってか、もっと華やかなヤツも逞しいヤツも……ほかにも色々いるだろ、この学校にだって」 「でも、春日くんがいいよ」 「だから、なんでだよ?」 「だってさ、えっと……なんか、『穏やかに見ていられるな』って感じがするから。じっくり観察して描くには『うってつけ』っていうかさ」  喋る時のクセなのか、奏が、小さく首を傾げながら言葉を続ける。 「ほら、春日くん、ひとりで走ってるし」   「そりゃ……部活、辞めたからな」 「やっぱそうなんだ? そっか、それで今、あそこで走ってるんだ」 「『やっぱ』…って、なんだよ」 「前は、校門側のグラウンドの方で走ってただろ? 陸上部の人たちと一緒に。美術室から見てた。でもいつの間にか、いなくなったから。でも、いつだったか、ふっと外見た時にさ、そこの裏で、春日くんが走ってて。だから、ここで描いてたんだよ、おれ」  悠一が、パチクリとひとつ大きくまばたいた。  そして、 「なんかさ、オマエ……変なヤツ、だよな」と笑い出す。 「え? そんなことないよ、別に、ヘンじゃないよ」  そうやって、やたらとムキになって否定しながら、奏が、 「あ、それはそうとさ、春日くん、おれは……学年一緒で、一組の」と言いかける。 「『たかなしかなで』だろ?」  目じりの笑い皺ににじんだ涙を、親指の先でこすり落としながら、悠一が先回りした。 「知ってる。『名前だけは』」と。
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