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8.誰も知らない。
[11]
週末。
休みの前日の夜は、たいてい「あの人」に呼ばれる。
ひと払いがされていた。いつもどおり。
そんな必要などないのに。どうしてって、皆、見て見ぬふりだからさ。
「母さん」だって、もうずいぶん長い間、奥の自室から出てこない。
古いグランドピアノが置かれた「離れ」。
ピアノと同じくらい古い建物だが、それは分厚い土台を打ち、コンクリートと石で作られた堅牢なものだった。
先の大戦の頃、万一、この街に空襲が来たとしても火災を免れるように準備されたのだと聞いている。
とはいえ、その「離れ」の名目は「音楽室」だった。
たしかに、この屋敷に客を集めてのパーティーや会合などの催しでは、ここで、ちょっとした「音楽会」が開かれていたこともあった。
曾祖父は学生時代、オーケストラでヴァイオリンをやっていたらしいし、祖母は音大の出だ。
叔父は昔からオペラ好きで、自分でも、多少は歌えるらしい。
だから、この本家に「防音」の「音楽室」があっても、特段の不思議はない。
けれど――
「離れ」の入口の扉までやって来た尊は、重いドアノッカーを三回打ち付けた。
分厚すぎる扉に阻まれ、「入れ」と応じたらしい「父の声」は聞こえない。
尊はかまわず、ドアを押し開けた。
藤堂隆道は、部屋の奥、腰窓の傍に据えられた古いチェスターフィールドチェアに座していた。
手にしているのは、いつものスコッチ。
独特のピート香で、すぐに「それ」と判る酒だった。
しかし今、それ以上に、室内に充満しているのは――
思わず顔をしかめそうになり、尊はすぐさま自らを律する。
「表情」を大きく転ずることを、尊の父は激しく嫌悪していた。
「笑顔」も「怒り」も、「快・不快」の表情すらも「是」とはしない。
父は尊に、ごく冷静な、ごくニュートラルな態度を崩さぬよう、常に強く求めていた。
けれども今夜。
そう狭くもない離れの室内いっぱいに立ち込める「ニオイ」は、どうにも耐え難いほどだった。
「今日のは、特にひどすぎる……」と。
胸の内で、尊も悪態をつかずにはいられない。
そんな尊の視線の先。
床にペタリと割座で座るのは――
発情しきったオメガの男。
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