2.小鳥遊奏の日常

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2.小鳥遊奏の日常

[2]  デッサンだけ数枚仕上げ、(かなで)は部室を後にする。  三年生がふたり、ちょうど入れ違いでやってきたから、鍵は置いていった。 「なんかさ、ちょっと部室、寒くね」「ああ……窓、あいてんぞ」  廊下に出た奏は、そんな声を背中で聴く。  いつも、ひとりで部室にいる時は「窓を開ける」ようにしていた。  空気がこもったりしないように。  高校に入学してすぐのこと。  授業で使う道具の準備を頼まれ、準備室にいた時だ。  ガラリと入ってきた男子学生が、引き戸を開けるやいなや、ひどくあけっぴろげに言った。 「え、なんかこの部屋、クサくね?」と。 「そうか?」  もうひとりの男子はそんな風に応じ、「画材とかのニオイじゃねぇのかよ? 油絵具とかのさ」と受け流した。  けれど奏は、部屋の奥の、棚の間で身体を固まらせたまま動けずにいた。  そして――    その時の男子学生の「クサい」という言葉が。  今でも、どうしても心にこびりついている。  だから窓を開ける。  いつも、開ける。  *  奏のオメガ性の判定が確定したのは、中三の初冬。  ちょうど受験シーズンが到来する頃だった。  発情(ヒート)は、まだ来ていなかったし、今もまだ来ていない。  その頃から、準備の抑制剤は定期的に飲み続けている。  市内には大きな大学病院があって、そこは思春期の子どもに対する第二性のケアや研究が盛んな場所として、全国的にも知られていた。  生理不調の激しい女子が、低用量ピルを処方されるようなものだからと。  奏も医師に、そう教えられていた。     校門を出てブラブラと、奏は当てもなく歩き出す。  街を歩くのに、いまは一番いい季節だよなと。  ここで一番好きな季節だと、そんな風に思いながら。  もちろん、いつだって、この街は綺麗だ。  痛いほどにきらめいて張りつめる冬の空気も。   城の内堀端の満開の桜も。  遠く街を包み込む山々に掛かる、夏の虹も。  でも、夏は少し暑すぎる。  この古い街は、広い道幅で整然と区画されているくせ、高い建物があまりない。  だから歩道には、日差しを遮る影がほとんどなくて。  標高のせいで、きっと太陽にも近いんだろうなって。  そんなコト、思ってしまうほど、白い光に焼かれてしまうから――  気づけば、奏は城の傍まで歩いてきていた。  なんだか、あたりが賑やかだ。    何かの設営……?  ああ、そうか。週末の三連休に、ビールフェスタがあるんだっけ。  やたらやかましいんだよな、あれ。  でも大人たちは、毎年楽しそうだし?   なんだかんだ、地方都市にはイベントって「大切」だ。観光客向けにもいいし。  そして奏は市立美術館の前に着く。  ここは、建物内に入るだけなら無料だ。  図書室とか市民ギャラリーとかは、そのまま、誰でも見られる。  館の常設展示の料金もとても安い。  ただし、奏はもう、それはあらかた見尽くしていた。  今の企画展は面白そうなんだけど……たださ。  やっぱ、ちょっと高いんだよな、今回の入場料設定。  そんなコトを取りとめもなく思い巡らせながら、奏は館内に足を踏み入れた。 * 「おかえり、カナちゃん」  玄関ドアを開け、たたきでスニーカーを踏み脱いでいる奏に、母親が声を掛ける。 「……ただいま」  奏の声は、すこし不服気にくぐもった。  母親が、戸惑うようにまばたく。 「『カナちゃん』は、やめて……いったよな、おれ」  俯きながら吐き捨てて、奏が階段を上っていく。 「あ、ごめんごめん」  母親が苦笑する。 「そうだわ、奏。おなかすいてない? お父さんね、今日は一本遅い『あずさ』だって。六時半に着くみたい。だからご飯、ちょっと遅めに……」 「大丈夫、分かってるってば」  足を止めぬまま、奏は面倒そうに応じ、自室へ入っていく。  そして、 「さっき、中町の傍でワッフル喰ってきたし」と言い足して、ドアを閉めた。  思春期の男子に、ごくありがちな母親への態度。  すこしだけ素っ気ない「ふり」の。  どこにでもいる高校生の、そんな夕方だった。
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