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「ただいま」
道の裏手、勝手口めいた自宅の玄関を開ければ、せわしなさに浸食された空気が、フワリ、悠一の鼻腔に漂ってきた。
「おかえり、ちょっと遅かったんね?」
足早に通り過ぎる母親の声。
「遅れてねぇよ、別に。予定通りの時間だろ?」という返答は飲み込み、悠一は、黙って靴を脱いだ。
「じゃ、悪いけど、悠一。すぐ着替えて店に降りてきてな」
「しつっけぇな、分かってるって」の言葉も飲み込んで、
ただ、「分かった」と。
悠一は、そう母親に返答した。
――高校に入ってからは次第に、この「家業」を手伝う時間が増えてきた。
だから、部活がなんだか「煩わしく」なってきたのかもしれない。
背もかなり伸びて、見た目も大人びてきた。
たぶん、「シゴトの場」にいても、俺は客にそれほど違和感を与えなくなっているはずで。
父さんからも母さんからも、色々と「当てにされる」コトが増えていた。
だからって、それをことさら「部活を辞めた理由」として、親に言ったことはない。
そんなのは、まるで「あてつけ」めいている――
悠一が陸上部を辞めたことは、母親もずっと後になるまで……「それ」が保護者面談の話題になるまで気づいていなかった。
だからといって、別段、子に無関心な「冷たい母親」と言うワケではなく。
いうなれば、ただ「忙しすぎた」だけのこと。
それに悠一の方でも、自分の身の回りのコトは――掃除や洗濯や、そんな雑事は、次第に自分でこなすようになっていた。
だから母親も、悠一の学校生活の「変化」に気づきにくかった。それだけだった。
「なんで辞めたんね? 中距離走、頑張っとったんやなかったね?」
面談の帰り道。
少し戸惑いを帯びた声音で、母親に訊ねられた。
「別に」
悠一はごく素っ気なく応じた。ひと言だけ。
そして、いまだ、どこか納得いかなげな母に、こう付け足す。
「……別に、そこまで真剣にやっとったワケじゃないから」
そのあとのふたりは、ほぼ無言だった。
面談でも、学担の先生から、悠一について、これといって特別な話もなかった。
成績も、授業態度も素行も。友人関係も。
いたって普通。
いたって平凡な、特別なんの問題もない生徒。それが「春日悠一」で。
担任とて、他に「これ」といって面談の話題がなかったからこそ、ワザワザ「部活を辞めた話」を持ち出しただけのコト。
もちろん、退部自体にも、なにひとつ問題はなかった。
何の軋轢もなしの、上手な「フェイドアウト」。
要するに「春日悠一」は、そんな高校生だった――
二階にある自室の扉を後ろ手に閉め、悠一は、カバンをパイプベッドの薄いマットレスに放る。
そのまま、学ランのホックとボタンを外した。
ズボンとシャツも脱いで、突っ張り棒を渡してクローゼット風に改造した押入れの襖を開く。
黒のスーツが二組。
一方は、真っ白なワイシャツごとハンガーに掛かった、クリーニングから戻ってきたばかりの一式だ。
悠一は、迷わずそちらに手を伸ばし、薄いビニールカバーをむしり取った。
勉強机に置いた鏡の前で、黒のタイを締め上げ、結び目を整えて、目の細かい櫛で髪を撫でつける。
本当は好きじゃないヘアジェルを、ごく少量だけ指に取り、サイドの髪を軽く押さえる。
たったそれだけのコトだったが、悠一の顔は、ガラリと「老けた」印象に転じた。
さしずめ「社会人二、三年目」と言った風の。
「まあ……もともと『老け顔』ってコトだよな」
悠一は、声にしてひとりごちた。
むかしっから、「悠くんはシッカリしとるだいね」と、よく大人たちに言われてたし……。
自室を出て階下に降り、玄関から一旦、外に出る。
そしてグルリと道路側へと回り、店の通用口のガラスのアルミ戸を引いた。
入ると土間。
いつもの荷物。
白いテーブルクロスの予備。
漆塗りの箱もののたぐい。ボールペン、薄墨筆ペン。ハンカチ。
「母さん」
悠一が奥に呼ばわる。
「ここらの荷物、バンに積んどきゃいいのかよ?」
「え? ああ……そうそう、頼んます」と、くぐもった母親の声。
奥の造花の部屋にいるらしい。
「不祝儀袋の予備は? 御霊前、御香典、どれ入れとくの?」
風呂敷に荷物をまとめながら、悠一が重ねて訊くと、パタパタとスリッパの音をさせて母親が戻ってきた。
「あ、今日はな、『御花料』のにしとって」
「え? クリスチャンなの」と、悠一が怪訝に眉根を寄せる。
「じゃ、いつもの斎場じゃないん?」
「いいや、いつもんとこだいね」
母親が首を振る。「ご家族、故人さんだけ『教会さん』ってさ」
ふうん、と呟き、悠一は荷物を抱えた。
駐車場に停められたバンのドアを開け、後部座席に一切合切を詰め込んで。
「春日葬儀社」と、社名入りのサイドドアをスライドさせ、ガシャンと閉めた。
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