3.春日悠一は走る。

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  「ただいま」  道の裏手、勝手口めいた自宅の玄関を開ければ、せわしなさに浸食された空気が、フワリ、悠一の鼻腔に漂ってきた。 「おかえり、ちょっと遅かったんね?」  足早に通り過ぎる母親の声。  「遅れてねぇよ、別に。予定通りの時間だろ?」という返答は飲み込み、悠一は、黙って靴を脱いだ。 「じゃ、悪いけど、悠一。すぐ着替えて店に降りてきてな」  「しつっけぇな、分かってるって」の言葉も飲み込んで、  ただ、「分かった」と。  悠一は、そう母親に返答した。  ――高校に入ってからは次第に、この「家業」を手伝う時間が増えてきた。  だから、部活がなんだか「煩わしく」なってきたのかもしれない。  背もかなり伸びて、見た目も大人びてきた。  たぶん、「シゴトの場」にいても、俺は客にそれほど違和感を与えなくなっているはずで。  父さんからも母さんからも、色々と「当てにされる」コトが増えていた。    だからって、それをことさら「部活を辞めた理由」として、親に言ったことはない。  そんなのは、まるで「あてつけ」めいている――  悠一が陸上部を辞めたことは、母親もずっと後になるまで……「それ」が保護者面談の話題になるまで気づいていなかった。  だからといって、別段、子に無関心な「冷たい母親」と言うワケではなく。  いうなれば、ただ「忙しすぎた」だけのこと。  それに悠一の方でも、自分の身の回りのコトは――掃除や洗濯や、そんな雑事は、次第に自分でこなすようになっていた。  だから母親も、悠一の学校生活の「変化」に気づきにくかった。それだけだった。 「なんで辞めたんね? 中距離走、頑張っとったんやなかったね?」  面談の帰り道。  少し戸惑いを帯びた声音で、母親に訊ねられた。 「別に」  悠一はごく素っ気なく応じた。ひと言だけ。  そして、いまだ、どこか納得いかなげな母に、こう付け足す。 「……別に、そこまで真剣にやっとったワケじゃないから」  そのあとのふたりは、ほぼ無言だった。  面談でも、学担の先生から、悠一について、これといって特別な話もなかった。  成績も、授業態度も素行も。友人関係も。  いたって普通。  いたって平凡な、特別なんの問題もない生徒。それが「春日悠一」で。  担任とて、他に「これ」といって面談の話題がなかったからこそ、ワザワザ「部活を辞めた話」を持ち出しただけのコト。  もちろん、退部自体にも、なにひとつ問題はなかった。   何の軋轢もなしの、上手な「フェイドアウト」。  要するに「春日悠一」は、そんな高校生だった――  二階にある自室の扉を後ろ手に閉め、悠一は、カバンをパイプベッドの薄いマットレスに放る。    そのまま、学ランのホックとボタンを外した。  ズボンとシャツも脱いで、突っ張り棒を渡してクローゼット風に改造した押入れの襖を開く。  黒のスーツが二組。  一方は、真っ白なワイシャツごとハンガーに掛かった、クリーニングから戻ってきたばかりの一式だ。  悠一は、迷わずそちらに手を伸ばし、薄いビニールカバーをむしり取った。  勉強机に置いた鏡の前で、黒のタイを締め上げ、結び目を整えて、目の細かい櫛で髪を撫でつける。  本当は好きじゃないヘアジェルを、ごく少量だけ指に取り、サイドの髪を軽く押さえる。  たったそれだけのコトだったが、悠一の顔は、ガラリと「老けた」印象に転じた。  さしずめ「社会人二、三年目」と言った風の。 「まあ……もともと『老け顔』ってコトだよな」  悠一は、声にしてひとりごちた。  むかしっから、「悠くんはシッカリしとるだいね」と、よく大人たちに言われてたし……。    自室を出て階下に降り、玄関から一旦、外に出る。  そしてグルリと道路側へと回り、店の通用口のガラスのアルミ戸を引いた。  入ると土間。  いつもの荷物。  白いテーブルクロスの予備。  漆塗りの箱もののたぐい。ボールペン、薄墨筆ペン。ハンカチ。 「母さん」  悠一が奥に呼ばわる。 「ここらの荷物、バンに積んどきゃいいのかよ?」 「え? ああ……そうそう、頼んます」と、くぐもった母親の声。  奥の造花の部屋にいるらしい。 「不祝儀袋の予備は? 御霊前、御香典、どれ入れとくの?」  風呂敷に荷物をまとめながら、悠一が重ねて訊くと、パタパタとスリッパの音をさせて母親が戻ってきた。 「あ、今日はな、『御花料』のにしとって」 「え? クリスチャンなの」と、悠一が怪訝に眉根を寄せる。 「じゃ、いつもの斎場じゃないん?」 「いいや、いつもんとこだいね」  母親が首を振る。「ご家族、故人さんだけ『教会さん』ってさ」  ふうん、と呟き、悠一は荷物を抱えた。  駐車場に停められたバンのドアを開け、後部座席に一切合切を詰め込んで。  「春日葬儀社」と、社名入りのサイドドアをスライドさせ、ガシャンと閉めた。
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